私の最も尊敬する作曲家は、J.S.バッハとクロード・ドビュッシー、です。
ピアノ演奏においては、私は、フランス近代の室内楽曲を最も得意としていますが、ピアノソロにおいて私の一番好きな作品は、ここのBGMに添付している、
J.S.バッハの平均律第1巻24番(ロ短調) BWV869 のフーガで、これは、2009年4月19日の「サンポート高松」で開催されたチャリティコンサートで私が演奏したライブです。
これは、リンク先の、
Public Domain Archive (パブリックドメイン・アーカイブ)
掲載の、世界の名だたる巨匠ピアニストの演奏の中で、私が一番気に入っている、エドウィン・フィッシャーの演奏を若い頃にアナリーゼして確立した演奏スタイルです。
ご高承のとおり、J.S.バッハの作品は楽器を選びませんので、ピアノ、チェンバロ、オルガン、ストリングスなど、どんな楽器で演奏しても、その内容は音楽として伝わってきます。
ですから、2009年4月19日当日は、カシオの電気ピアノでやりましたけど、全く問題のないことは、最初からわかっていました。
まあ、当日は、クラシックを初めて聴く人が多かったので、再現部までは、かなり速いテンポでやりました。
初めてソナタ形式を使った、この、無調性のフーガをピアノで演奏していると、私自身の作曲意欲が失われるような傑作だと感じています。
まだ母が健在だった2000年9月13日、母も聴きに来てくれた、石井岡山県知事の招聘で
「岡山後楽園築庭300年祭記念コンサート」に出演した際、朗読家の江守徹さんなどと自作の朗読文面に合わせた
作品でコラボ共演した前半、ピアノソロの部分で、J.S.バッハの平均律第一巻24番のロ短調フーガを演奏したものでした。
この時は、初めてクラシック音楽を聴く人にとって、いきなり、J.S.バッハの平均律第1巻24番のロ短調フーガは、近寄りがたいものがありますが、
私が、一番好きなピアノソロ作品なので、聴きやすいサティーの小品と、アレンジした、ジャズ、尾崎豊と唱歌のメドレーの間で演奏しました。また、プログラム全体は、下属調に向かって曲目を並べました。
作曲をやっているピアニストとしての当然のプログラム構成です。
なぜなら、演奏会は聴衆のために開催されるべきもので、出演者の自己満足にとどまっているものは、プロ・アマ関係なく、ピアノの発表会に過ぎないからです。
その後、母の大好きだった栗林公園に母と一緒に行った思い出に基づいて、
新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111(全18曲)』
を作曲して、母の死去、一周忌を迎えた後、
2007年10月14日の栗林公園庭園コンサート
にて初演しました。
日常的に作曲している私はレクイエムなんて柄じゃないですし、母の急死という悲しい出来事からよみがえってきた、一緒に暮らしていた当時の母との思い出が私の記憶の底に沈んだ、
という意味で、この題名にしました。
が、この時は、J.S.バッハの平均律第一巻24番のロ短調フーガは、演奏しませんでした。
なぜなら、この、J.S.バッハの平均律第一巻24番のロ短調フーガは、若い人達がたくさんいらっしゃる演奏会でしか演奏しないことにしているからです。
というのも、この知られざる名曲を、是非、若い人達に知っていただきたいからなのです。
が、また、この、J.S.バッハの平均律第一巻24番のロ短調フーガを演奏する機会がやってまいりました。
それが、2009年4月19日午前10時から、高松市のサンポートタワー内1F展示場で開催された「第1回おいで MY フェスタ」でのチャリティコンサートでした。
私がこのフーガをピアノで演奏する時は、かなりテンポルバートをかけて、ソナタ形式を意識したスタイルで、音色も透明度を高くすることが常ですので、
エドウィン・フィッシャーのものとは、全然違った演奏スタイルです。
もちろん、2009年4月19日当日、私は、親友の津軽三味線の筒井君とのコラボのために、香川県内の民謡をいくつかアレンジしていて初演しましたし、このコラボを聴いて受け取った
インスピレーションに基づいて、その場で、香川県の30歳の書道家の『てらきち氏』が、書道の執筆のパフォーマンスをしました。彼の書道が素晴らしいことは私も存じ上げているのですけど、
私の作品などは、初めて、ソナタ形式を採用した、無駄な音が一音もない、J.S.バッハの平均律第一巻24番のロ短調フーガに遠く及ばないことは決まっていますので、ひたすら、
J.S.バッハのことを思いながら、特に第二主題の再現部などに涙しながら練習しました。
本当に、この第二主題の再現は、何回演奏しても、有難く、素晴らしいものです。
思い起こすと、BGMに添付した、エドウィン・フィッシャーの演奏する、J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集に感動したのは、早稲田大学時代のことでした。
高田馬場の『あらえびす』『らんぶる』、吉祥寺の『バロック』、中野の『クラシック』、高円寺の『ネルケン』、荻窪の『ミニヨン』、・・・・・どこだったか、もうよく覚えていないんだけど、どこかの名曲喫茶でした。
エドウィン・フィッシャーの演奏に、私が一番驚愕したのは、通奏低音とトリルの処理でした。
特に、平均律クラヴィーア曲集 第1巻第24番 ロ短調 BWV869 で一番驚いたのは、プレリュードとフーガの中の通奏低音で絶対に必要なバスの音を1オクターブに拡大しているという
見事なアナリーゼでした。
リンク先の、
Public Domain Archive (パブリックドメイン・アーカイブ)
においては、エドウィン・フィッシャーの演奏するフーガだけしか掲載されていませんでしたが、本当に当時の懐かしい光景が蘇りました。
また、当時聴いた、ギーゼキングのものはテンポ設定が形式と今ひとつマッチしていないし、グールドは、ゴールトベルクは素晴らしかったのですけど、楽曲の譜面上の表情記号の全くない、
平均律になると、絶対にエドウィン・フィッシャーには遠く及ばないと、実際にこのバッハの作品を演奏する立場で痛感したので、
私は、平均律の楽譜を、その名曲喫茶に持って行って、エドウィン・フィッシャーのアナリーゼを自分の楽譜に書き込んで、
これを元にして、自分が、平均律クラヴィーア曲集 第1巻第24番 ロ短調 BWV869 を演奏する基本的なスタイルを確立しました。
もちろん、あくまでも、基本的なスタイルの参考にしただけで、私のこの作品の演奏の仕方は、右脳を使わない『物真似』や『パクリ』ではなく、右脳にいったん投影してから行う『再創造』
です。
こういう創造的模倣が、音楽に接する必須のアンタオタクなやり方で、その数え切れない体験をしているミュージシャンが本物なのです。
当たり前のことですが、「パクリ」と「模倣」はまったく別の出来事です。
そして、このことは、音楽のジャンルなど関係なく、クラシックだけじゃなく、ポップス、ジャズ、ロック、フュージョン、J-POP等、全ての音楽に接する際に大切なことなのです。
素晴らしい演奏に接した時、それを素晴らしいと謙虚に受け止めて、それをいったん右脳に投影して模倣することは、演奏や作曲の出来ない、ひきこもりのオタクには理解不能なことですし、
それ以上に、謙虚さのない人には出来ないことでしょうね(笑)。
ですから、楽器を演奏し、必要に応じて楽譜に書き込むやり方でない聴き方では、ダメなのです。
その証拠に、ただの、レコード鑑賞家やら音楽評論家風情が言葉にする音楽の感想で使う形容詞や美辞麗句、あるいは、「キモい」「キショい」等のその場限りの酷評は全く無意味です。
別に楽器を演奏しなくちゃならない義務はありませんよ。でも、楽器を演奏したり室内楽、コラボ仲間や、バンド仲間と話し合うことで、その音楽を作った作曲家に肉薄できるのです。
美術や文学ならば、人は、全ての作品に直接触れることが出来ます。
しかし音楽の場合は、作曲家が残したものは、楽譜なのですから、それに接する人は、読譜したり演奏するという作業が出来ないと、ダメなんですね。
そして、音楽の世界は、演奏者が、作者と聴衆の間に介在しますから、これに加えて音楽評論家やら音楽業者が加わると誤解の元になることは、過去の音楽史においても明白なことです。
ギーゼキング、エドウィン・フィッシャー、エゴン=ペトリ、ヨーゼフ=ホフマン、ヨーゼフ=レヴィーン、バウアー、ザウアー、フランシス・プランテ、ペルルミュテール、コルトー、
ロン、リパッティー、ホロヴィッツ、パハマン、グールド、フランソワ、ジャン・ドワイアン、カザドシュあたりの、19世末から20世紀に活躍した巨匠ピアニストなどの演奏を聴いた経験
などというものは、プロ、アマ関係なく、クラシックの作曲やピアノ演奏をやっている人にとっては一般教養に過ぎません。
巨匠ピアニスト達の固有名詞の使い方で、その方が読譜して演奏している人なのか、ただのリスナーなのかどうかはすぐにわかるのです。
若い頃から、作曲とピアノ演奏をやって来た私なんかは、「エゴン・ペトリ」なら『美しき青きドナウ』をアレンジしたもの、「フランシス・プランテ」なら 『ショパンエチュードOP.10-7』の
終結音、「ホロヴィッツ」なら『メンデルスゾーンの結婚行進曲』をアレンジしたもの、「ロン」なら『フォーレのアンプロンプチュ5番』、ジャン・ドワイアンなら『フォーレのバラード』等、
代表的で記憶に鮮明に残っている譜面と絶対音によるパッセージを浮かべながら、こういう巨匠達の名前を文章の中で、極めて音楽的に引用します。
ただの、レコード鑑賞家やら音楽評論家風情が、
「私は、ちょっと一家言ある詳しい聴衆なんだぞ。」等という、自己顕示欲、知識欲、金銭欲を満たすためだけに、巨匠ピアニスト名や過去のジャズやロックのアーティスト名を引用することとは、
全然違っているのです(笑)。
絶対音感を持っている方がよいのは、こういう時です。
かつて聴いた、そのアーティストの演奏した音を絶対音で頭の中で響かせながら、そのアーティスト名を引用することが出来るかどうかは、音楽的に致命的なことですから。
ただし、演奏活動を続けるうちに、音感は自然に研ぎ澄まされ、限りなく絶対音感に近づきますので、ジャンルなど関係なく、まずは、楽器を演奏することが肝要なのです。