BGM(エンドレス);ショパン「バルカローレ OP.60」
ピアノ;ディヌ・リパッティ(1948年4月21日収録)
〔リンク先、パブリックドメイン・クラシック提供MP3〕
(1982.5.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1990年1月号)』に掲載)

1981.高松国際ホテル
友人の結婚式にて
ショパン「バルカローレ OP.60」演奏
拝啓
初めてお便りします。とはいってもあなたとはよくお会いしていますから、今さらお便りすることもないのですが・・・・・。
ダンテの「神曲」から・・・・・・・・
『ここを過ぎて悲しみの市(まち)』
太宰治の初期の作品集「晩年」にこの異様な文句で始まる「道化の華」という短編があります。私はこの短編が
大好きなのですが、それは、文学的な意味においてではけっしてありません。そうではなく、この短編が何かこの世ならぬ
不思議な光に満たされているように感じるからなのです。おそらく、このような感じは、もし仮に文筆上のすべての技法を
身につけた人がいても、あの世に近い何かがないと、けっして表わすことができないだろうと思います。
同様のこの世ならぬ不思議な光をOP.60のバルカローレに強く感じます。
この曲は確かに、形式、和声、ポリフォニー、全て完璧です。しかしそれだけでしょうか?
…私はその程度の客観的な尺度でもってこの曲を、例えばバラード4番やスケルツォ4番なんかと同次元で語ることは絶対に
できません。確かに、この曲はラテン的、前衛的であり、また、ドラマティックな展開を見せてくれます。しかし、およそ
人間のした作業とはとても考えられないほど、あの序奏から最後までごく自然に流れていて、いちばん最初のモチーフの
原型がほとんど100%全曲を規定したように思われるのです。作曲技法上の成熟だ、という人もいるようですが、
そんなに冷静に技法上の問題として眺めることは私にはできません。私には、とてもそんなふうに、バラード4番から
バルカローレに至る道筋を見つけられないのです。この2曲には、技法を超えた大変な飛躍がありすぎます。
このように、問題は形式や和声やポリフォニーといった作曲技法の点ではなく、この世ならぬ光の源がどこであるか、
といった点なのです。それは、人間の感情とはほとんど関係がなく、神や自然やインスピレーションや偶然や才能、といった、
ほとんど、人間の努力や理性や知識や経験をもってしても得ることのできないもの、神様に選ばれた人だけが手にすること
のできるもの、に基づいているようです。
私はただ、こんな愚問を発することしかできません。
「どうしてこんな曲想が浮かんだのですか?」
あなたの答えはわかっています。
「たまたま偶然に浮かんだのですよ。」
…全ての偶然性を受容しなければ何の創造もできないことは百も承知です。でも、この愚問をくり返さずにはおれません。
いったいこんな偶然が人間に訪れることがあるのでしょうか…
ところで、
この曲はどうやって弾けばよいのでしょう?
リパッティーとモイセビッチの演奏はいいように思いましたが、どんなものでしょうか・・・・・?
私はピアノはとても下手ですが、この曲をただ、ただ、誠実に弾いております。一つ一つの音がとても貴重で、
何も考えずに。また、あの左手のゆれ動く音型が私の脈拍数を決定するのです。ですから、曲を途中でやめたり、
途中から弾き始めることは私にはできません。あの序奏から最後の転調を経てモチーフが再現されて終結するまで、
自然に終わってしまいます。
正直言って、あの2つのピアノ協奏曲や3番のソナタ程度の曲なら、勉強と経験で、誰にでも書けるような気が
していました。(もちろん私にはそんな駄作を書いている暇がありませんけど。)
しかし、バルカローレのようなすばらしい曲は私は一生かかっても絶対に書けない。
だから一生、このバルカローレから離れられない。
この曲の書かれたすべての状況に感謝したい気持ちでいっぱいです。
さて、私はあなたから143年ばかり離れた東洋のすみっこの島で数多くの凡人に囲まれております。そして、
驚くべきことに、私が生きるにつれて、刻一刻とあなたから遠ざかってゆくしくみになっているのだそうです。
このしくみを信じている周囲の凡人たちは、あなたがいつも私の指の押さえる鍵盤の下にいることを知らないようです。
このかわいそうな人達に比べて、私たちはなんと幸福で永遠の友情に満たされていることでしょう。
これからもどうかよろしく。
敬具
20世紀末より愛をこめて
親愛なる1847年のフレデリック・フランソワ・ショパン様へ
PS.イギリスには行っても仕方がないと思います。それよりも、一度クロードがお会いしたいと言っていました。
ロベルトのいない時の方がいいと思いますが…。
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