(1990.4.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1990年5月号)』に掲載)
<「栄養マヨネーズ」は、ショパン作曲『英雄ポロネーズ』の
ピアニスト仲間でのニックネームです。マヨネーズをたくさん
摂取してから演奏に取り組まなくてはならない程、大変にパワ
ーを必要とする作品であること、ゴロ合わせから、このニック
ネームで親しまれています。>
16才の夏(1973年8月)、当時、高校2年生だったぼくは、交換学生として、アメリカ、ワシントン州にいた。
その日、ぼくの、生まれて初めてのピアノソロリサイタルがシアトル市長宅で行なわれたあとのこと。市長宅といっても、門をくぐってから玄関に着くまで車で10分近くかかるような、ほとんど森のような豪邸で、幾棟かの家の他、ホールやスポーツジムのようなものまであり、プールも大小3つ、その間をぬって、広い芝生や、ヨーロピアンスタイルの池のある庭園、茶室のある日本庭園などが、配置されていた。
その日、ライオンズクラブの交換学生(Youth Exchange Student)として、ワシントン州ほか、アイダホ、オレゴン、カリフォルニア等、ウェストコーストの各州にホームステイしていた日本人学生10数名が、シアトルライオンズクラブ会長のシアトル市長宅に招かれ、イェップ(YEP・Youth
Exchange Program of LION'S CLUB)ショウという、いかにもアメリカらしい企画のパーティーが開催され、いろいろなアトラクションの行なわれた一日だった。
朝に、日本人女子大生達による琴の演奏と野点、午後に、日体大学生による空手のプレイがあった。
[当時世界中で大ヒットしていた「燃えよドラゴン」シリーズの主演の、ブルース・リーは、シアトルにある「University of Washington〔ワシントン州立ワシントン大学〕」の卒業生だったので、シアトルのDown Townには、空手教室が一杯あった。そして、中国人と日本人の区別のわからないシアトル在住のアメリカ人は、私も含めて、東洋人と街で出会う度に、「空手をやるのですか?」と質問され、しかも、「空手」がうまく発音出来ないので「空手」が「Cloudy」と聞こえたので、「どうして、今日は晴れているのに、曇っている、って言うのかな。」と、ぼくが面食らったことも懐かしい思い出だ。]

そして、最後に、夕方から、交換学生中最年少だった、ぼくのピアノソロリサイタルと、市長主催の盛大なホームパーティーが開催された。
その日のぼくのプログラムは、約2時間のオールショパンの最後に、その頃アメリカで大流行していて、ぼくも大好きだったカーペンターズをメドレーにしたものと、ミシェル・ルグラン作曲の映画「思い出の夏」(Summer of '42)のテーマをアレンジしたものを加えておいた。
まあ、今思い出すと顔の赤らむようなプログラムだけれども、当時としては、ベストを尽くしたものだった。ほとんどの曲は暗譜していたので楽譜も日本から持って行ってなかったが、スケルツォの1番だけは、アメリカに行ってから、ホロヴィッツのレコード(関連エッセイはこちらをクリックしてどうぞご一読下さい。 → エッセイ40番「ホロヴィッツの思い出」・・・・・ホロヴィッツ追悼・・・・・ )を聴いて気に入り、楽譜を買って急いでやったものだった。それだけに、この曲だけが心配だった。が、市長宅の100人ほどで満席になった2階まで吹き抜けの小さなサロンホールの抜群の音響と、素晴らしい、ホロヴィッツも使っているという、ニューヨーク・スタインウェイのピアノに助けられたようだ。
幻想即興曲の中間部 は、カーメン・キャバレロ(あの有名な映画「愛情物語」のテーマにショパンの作品9の2のノクターンをアレンジして弾いた人)が、流行歌にしたものが、1950年代にはやったそうで、これが始まるやいなや、中年のオバサン方が歌い出した のにはまいったけど。(後で聞くと、「あそこは私達にとって懐かしいポップスです。」 のこと。)最後のアレンジものなどは、主催者の希望を入れたウケることを期待したものだったが、意外なことに、
結局一番ウケたのは、「英雄ポロネーズ」だった。
特に、それまで、琴にも野点にも空手にも、バカにしきった横柄で明らさまに不愉快な態度をとり続けていた、18才になる2メートル近くの大男だった、市長のドラ息子で、ドラムを叩いていたスティーブ(彼は、日本人と日本人に表面的に理解を示しているところの、いわゆる知日家の父親が気に入らないみたいだった。後で、彼に聞いたところでは、一般に知日家ほど黄色人種を差別する傾向が強いそうで、彼の父親もその偽善者の典型だ、とのことであった。)や、彼と一緒にバンドを組んでヘビーメタルなロックをやっていた、ジェフだのビルだのといった、黒人やその他得体の知れない、交換学生を通しての各国親善とは無縁の門外漢の連中に大ウケ。
演奏後の拍手の中でも、興奮して指笛を鳴らしたり、足をドタドタと動かして大声であの「英雄ポロネーズ」のテーマを歌いながら
「アンコール」の連続。
ぼくは、あの『栄養マヨネーズ』みたいな曲をアンコールで何とたてつづけに2回もやらされたのだった。(まだ、ぼくも若かったから出来たんだと思う。)
そのうえ、その後のホームパーティーも終わり、ホッとして、一番親しくしていたアイダホ州にホームステイしていた浜松市出身の日体大の学生と2人で久し振りの日本語を楽しみながら庭を散歩している後にまでくっついて来て、
「カツヒコ、あれは何という曲だ。」と聞くのだ。
「今日の曲目は全部ショパンのピースで、あれは、『英雄ポロネーズ』。ショパンはぼくの一番好きな作曲家なんだ。」と言うと、
「ふうん。ショパンか。でも、ショパンなんてどうでもいい。ともかくあの曲はイカスな。それから、君の弾くピアノは最高にファンタスティックだったよ!」
ともかく、彼はこれだけのことを言うためだけにぼくのあとをついて来たようだったし、自分の感覚に正直でピュアーな感じ方とダイレクトな感想に、ぼくは思わず笑ってしまっていた。日本ではまずこんなことないだろうな、クラシックの演奏っていうだけでみんな聴く前からかしこまっちゃうだろうから。
これは、レヴェルが高いとか低いとかじゃなく、ともかく、彼等は回りからどう見られるだろうか、なんて気にせず、
自分の感覚や知識状態に自分なりの自信を持った完全な個人主義者(現時点の個々人の実力をストレートに評価する実力主義をベースにした、真のデモクラシーの社会に支えられた個人主義者)なんだな。
ぼくはこの時初めて、アメリカって日本なんかよりずっと居心地がいいな、と思った。
以来、スティーブとは毎年クリスマスカードのやりとりをするほんとに親しい友人になってしまったが、考えてみると、あれからもう17年になる。
でも、早い時期にアメリカで真の個人主義の人達の生活を目に出来たことは、音楽に国境がない、ということを肌で感じたこと以上に、ぼくの生き方においては重要な刺激になった。
今回、1年ぶりにウィーンから帰国し、東京で再会したピアニストの熊井善之君から、ウィーンの色々な話を聞いて、欧米と日本の違いとそれが芸術に及ぼす影響のことを考えさせられ、いずれにせよ、クラシック音楽が日本の基本的体質においては、決して本当の意味で流布することはないように感じた。
特に印象に残った話は、彼がイタリアのマクニャーガ国際コンクールで優勝した翌日、マクニャーガの街から電車に乗るために駅に行って靴を磨いてもらった時、
その靴磨きのおじさんが
「昨日、君が演奏したシューベルトのソナタ、今まで俺が聴いた中では最高だったぜ。」
って話しかけて来たこと。
こんな素敵な聴衆、日本には絶対にいない!
ヨーロッパでは、音楽を聴くこと自体が日本よりもはるかに日常的なのだ。こうした演奏の技術以前の、ヨーロッパの音楽的キャパシティーのことを聞くと、やっぱり日本はダメだなと思う。…ってぼくが言ったりすると、「いやいや、クラシック音楽はあちらが本場だから仕方ないですよ。」何て言い訳が聞こえて来るんだけど、じゃあ、日本は古来の芸術に対して、そんなに全体の風土が高いのかというと、そうでもない。ヨーロッパの人達がオペラを愛するように日本の人達が能楽や歌舞伎を愛しているとはとても思えないんだけど。そして、日本のほとんどの音楽サークルは、同じ趣味の人達がディレッタントに集まり、非日常性の上に成り立っている。
確かに、同じ楽器の人達とでないと語り合えないこともある。この演奏家の切実な思いは、ぼく自身もピアノを弾いているから十分にわかる。
でも、演奏会の企画の段階になると、音楽はまず聴きに来てくれる人達のためにあるのだ、ということが優先されなくてはならないのである。
これまで、サロンコンサートをいろいろ企画した中で、ピアノ、弦、管、声楽等、それぞれの演奏家の演奏家としてのいろいろなご意見を聞かせていただいたが、驚かされたことは、
この人、もしかしたら、
音楽よりも楽器のほうが好きなんじゃないかしらという人達が多いことと、
楽譜よりも先にレコードやCDを聴いて、その物真似しか出来ない人の多いこと。
音楽よりも楽器に興味のある人はその中でも一番手に負えない。
そういう人達は、聴衆の反応よりも同じ楽器をやっている人達とお互いの傷をなめあうことに興味があるから、ろくな演奏会が企画出来ない。
自己満足に浸っている本人はいいけれども、付き合わせられる聴衆はたまったものじゃない。
こういう演奏会が多いから聴衆はライブから離れて行くんじゃないかと思う。
「ピアノと遊ぶ会」は1977年の結成当初から、
以上のような、我慢ならない日本の音楽界の状況へのささやかな抵抗を試み、
ドビュッシーの言う、
『アンチ・ディレッタント』なサロン
を目指して来た。
どんな演奏会の企画もそれが成功の秘訣だ。
つまり、演奏会は社会の片隅でコッソリとやるものじゃなく、幅広い聴衆への広がりが重要なこと。
個々の曲目の完成度はもちろん重要だが、それ以上に、その日の全体のプログラムがトータルとして美しく整備されているかどうか、その日聴きに来て下さった聴衆が最初から最後まで飽きずに聴けるかどうかを考えたプログラミングの方がはるかに大事だということ。
「ねえ、どうしてピアニストにならないの。」
しばらくうっとりとプールを眺めてボーッとしていたぼくの方に、また彼女が問いかけてきた。
…ああ、質問されてたんだっけな。
「将来のことなんてわからないよ。ただ、ぼくは、ピアノや音楽がとても好きだから、何年たってもやってるだろうね。ただ、それを仕事にするというのはねえ。音楽作品をプライスで計ること自体に抵抗があるし、第一、ぼく、あの曲を弾けとかこういう風にやれって命令されるのは大嫌いなんだ。今日も演奏する日程を決められるのはとても苦痛だったし。 まずは、やりたくもない曲を我慢してやらずに楽しくやること、これが一番大切なことだと思うよ。」
「でも、あなたのプレイを友達にも聴かせたいわ。 クライバーンがシアトルに来た時の、ショパンより・・・・・・」
…(ああ、また、クライバーンか。
あの男はね、大したことないんだよ。・・・・・などと言ってはいけないのであった。
なにしろ、モスクワで開催されたチャイコフスキーコンクールで第一位をとって、ソ連から優勝カップをかっさらってきたクライバーンは、弾けていた時も、弾けなくなった今でも、アメリカのヒーローなんだ。)
…と、彼女がうんざりするような、果てしないおしゃべりを続けそうな気配なので、ルートビアのおかわりでもしに行こうかなんて思ってるところへ、
「ヘーイ、カツヒコ。もう一度聴きたいな、あのピース。」
と、大声で叫びながら向こうの池の方からスティーブとその仲間達がやって来る。あのロッカー達、よほど気に入ったと見えて、
まだ、「英雄ポロネーズ」を歌っている。
もうその後のことはよく覚えていないのだけど、
夜中まで、ベッキーやスティーブにせがまれて、3回か4回、確かに弾かされたようだった。
いや、その前に、
「やーだよ。もう眠いよ。」
とプールサイドを逃げ回るぼくを、巨漢の黒人ジェフが軽々とつかまえて、
「Wake up!」
って、プールに放りこんでしまったのだった・・・・・・
全く何て奴らだ!
ぼくは本当に本当に、
まっ赤な夕焼け雲の影の中
に吸い込まれてしまったじゃないか!!