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『プッツンに関する若干の考察』


 

岡田克彦



1988.9.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1988年10月号)』に掲載)


BGM:岡田克彦24歳当時作曲
「ソプラノとピアノのための「枕草子」 第一段 OP.46」(エンドレス)

(ソプラノ;広田京子、ピアノ;岡田克彦)
〔1987.5.17.東京、鷺宮キネブチピアノ『ピアノと遊ぶ会』ライブ収録 〕



 去年の暮れ、東京、中野の名曲喫茶「クラシック」で知り合ったH君…当時は高校生ながら、SP盤でブッシュのベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲しか聴かない、という相当なオタクだったけど、…に、この「ピアノと遊ぶ会会報」のバックナンバーを読ませて、どんな音楽的な感想が返ってくるんだろうか、と楽しみにしてその次に会ったところ、

 H君「あのーーーーー、こんな言い方したら失礼でしょうけど。」

 ぼく「いや、どうか気になさらずに感じたことを率直に言って下さいよ。」

 H君「あのー、でもー、じゃあ言っちゃいます。」

 ぼく  ……

 H君「岡田さんの書く文章って、プッツンですね。」

 ぼく「…はあー? …はあ。 なるほど。」

 H君「ぼくは、岡田さんみたいなプッツンな人がクラシック音楽愛好家にいるとは知らなかった。特にあの「我慢ならないことども」、ぼくは、あれ、夜中に読んでて、可笑しくて可笑しくて『ギャハハハハ』って笑いすぎて親父に怒られちゃった。作曲やピアノもすごいメンバー集まってるのに、格式高いクラシックの仲間の会報とはとても思えませんでした。第一、あの表紙の『ピアノと遊ぶ会』のロゴの『ぶ』だけが黒いのって『屁』を象徴してんのかな、なんて思っちゃった。」

 (この最後の部分は明らかに間違いです。そんなスカトロジックな集まりじゃないですから。第一、ぼくの組曲「病床にて」の『点滴の詩(うた)』 について、常連のオーディエンスのS君から、「次は『強圧浣腸の詩(うた)』を書いて下さい。」何て冗談のリクエストに死ぬほど笑わされましたけど、ついに書けませんでしたから。)

 たしか、「プッツン」という言葉が一般的になったのは、2年ほど前からじゃないでしょうか。「とらばーゆ」「グリコ」と並んでよく使われる新語だ、というくらいのことは知っていたのですが、このように直接的に投げかけられたのは初めてでしたので、非常に感激、驚嘆してしまいました。それはもう、あなた、フォーレのレクイエムのサンクトゥスを最初に聴いた時と同じくらいの感激でしたから、改めてこうして「プッツン」について考えてみようと思ったくらいなのです、はい。

 たぶん、H君の言いたかった「プッツン」の意味を、教養の香り高いクラシック愛好家調にするなら、こうなるのでしょう。

 
「芸術上の美を優先するがために、世間一般の常識やモラルを失ったような」

 このように考えると、日常的に芸術をやっている人にとっては、ごくあたりまえのことなのでしょうね、プッツンするというのは。

 ただ、この、
プッツンするタイミングがすごく重要なんじゃないか、と思います。

 例えば、
ラヴェルの「ボレロ」について言えば、あの最後のハチャメチャな転調、ここでプッツンしている。フォーレの弟子のフローラン=シュミットは、この「ボレロ」を聴きに行った時、「私はあの最後の転調だけ聴きに来ました。」と言っていますが、まさしく、プッツンのタイミングをわきまえて「ボレロ」を楽しんでいた、と言えます。同様、モーツァルトもイ短調のピアノソナタの3楽章において、イ短調から平行調のハ長調に行くにあたってハ短調を経由するところでプッツンしています。ホロヴィッツなんかは、ショパンの「英雄ポロネーズ」においても、左手のオクターブにわざわざ5度の和音を入れて悪趣味にするなど、しょっちゅうプッツンしていますが、極めつけは「展覧会の絵」でしょうね。パハマンにいたっては、「いい曲だ、いい曲だ。」としゃべりながら、ショパンの「黒鍵のエチュード」の最後のダブルオクターブを両側に広げて終わってみたり、「小犬のワルツ」を3度でやってみたり、シューベルトのヘ短調の「楽興の時」を嬰へ短調に移調して、しかもド演歌風にアレンジしてやってみたり、この人からプッツンを取ってしまったら何も残らないほどです。そして、「ピアノと遊ぶ会」を代表するピアニストの一人、日本音楽コンクールで優勝した桐朋音大の有森直樹君の演奏したラヴェルの「蛾」が「モスラ」だったっていう定評は、プッツンのタイミングをわきまえた、ツボにはまった演奏という意味で、間違いなく絶賛の言葉です。

 多かれ少なかれ、創造する人は全てプッツンの要素をもっているものですが、この使い方がとても重要なのです。

 一つには、音楽においても文章においても、自分の伝えたいことを受取る人達にわかりやすくするために使うケースがあります。そしてもう一つは、ユーモアのセンスの表出として使う場合。いずれも使うタイミングが重要で失敗すると悲惨なことになりますから、十分注意しましょう。

失敗例その1

ベートーヴェンのヴァイオリンコンチェルトの冒頭のティンパニの使い方。これは、ベートーヴェンとしてはすごい着想だと思って書いていますが、全然すごくないです。

失敗例その2

シューマンの謝肉祭。これは、シューマンとしては、とてもユーモラスなおしゃれな小品集を書いたつもりなのですが、ちっともユーモラスではありません。特にひどいのは彼の尊敬していた作曲家を表現したという、『ショパン』という小品、全くショパンではありません。ウケないジョークの典型的なものでしょう。おしゃれな小品集というのは、ショパンの『24のプレリュード』のようなもののことを言うのであって、シューマンの謝肉祭でないことは既に常識です。

成功例その1

ドビュッシーの「グラドゥス・アド・パルナッスム」のパロディックな精神や、「象の子守歌」のチャメッ気はお見事。「子供の領分」はプッツンの最高峰です。

成功例その2

「子供の領分」と並ぶプッツンの最高峰は何と言ってもスクリャービンの「炎に向かって」。第一この曲、演奏の際、プッツンしてないと弾ききれないと、あなた、思いませんか?


 大体、ベートーヴェンやシューマンのような、モーツァルトほど才能もなく、バッハやブラームスほど頭もよくないドイツの作曲家はプッツンになり切ることが出来ないようです。

 民族性の違いなどではなく、ただ、
頭が悪いだけなんじゃないかと、ぼくは思います。

 










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