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『ネルケンの思い出』・・・・・フォーレの室内楽・・・・・


BGM;フォーレ作曲;「ピアノ四重奏 No.2」第1楽章
(ピアノ;岡田克彦、ヴァイオリン;竹内恵梨子、
ヴィオラ;納富継宣、チェロ;藤田裕)

〔1986.6.26. 原宿パウゼ「マ・ノン・トロッポの会」ライブ収録 〕





ラヴィーヌ・カルテットの活躍写真から

カザルスホールにて

1988.2.21.カザルスホール
第1回アマチュア室内楽フェスティバル
フォーレ「ピアノ四重奏 No.1 OP.15」
〔ラヴィーヌ・カルテットでの出演〕風景
(大正海上文化財団撮影)



 

岡田克彦

 

1990.8.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1990年9月号)』に掲載




 あれは、もう15年前のことになります。当時、早稲田の1年生だったぼくは、東京の下宿にピアノを持って行っていなかったので、近所の高円寺ヤマハ音楽教室でピアノを借りて練習したり作曲をしていました。「ネルケン」は、このヤマハで知り合ったアマチュアピアニストの一人に「この近くにいい喫茶があるよ。」と連れて行ってもらった、ぼくにとって初めてのクラシック喫茶でした。ともかくここを知って以来、ヤマハでの練習の後は毎日のように行って、かたっぱしからいろんな曲をリクエストして聴いていました。あの頃が、今までで一番音楽そのものに狂っていたんじゃないかと思います。実際、ほとんど、人類と口をきくこともありませんでしたし、大学なんて月に1、2回くらいしか顔を出していませんでした。「ピアノと遊ぶ会」を友人と結成して演奏や自作発表活動に動き出したのも、大学3年になってからのこと。その頃はただ、一人でピアノ、レコード、スコアと対峙していました。もちろん、ピアノの演奏の方は、大学3年以降、いろんなプロやアマのピアニストと出会って大いに刺激を受けたのですが、自分なりの和声法や対位法等の作曲技法は、この頃にほとんど見つけることが出来たように思っています。




 たしか、8月のとても暑い日でした。いつものように練習の後「ネルケン」へ行き、その頃大好きだったモーツァルトのリンツを今日は誰の指揮で聴こうかな? とレコードリストをめくっていたところ、ものすごく古い録音で聴いたこともない奇妙な曲が始まりました。

 まず、ト短調の主和音に基づく、ピアノの不気味な分散和音が32分音符で始まり、それにのって、弦のユニゾンが陰鬱なメロディーを奏で始めたのです。このト短調の重さからして、既に強烈な印象を持ちました。真夏だっただけによけい感じたのかもしれませんが、熱くエロティックな響きに、目の前がぼーっとなってしまいました。そのうち、平行調を経て、音楽は地平線を飛び立ち、宙に解き放たれ、ひと所にとどまることなく、次第に美しく移ろってゆく。…気がつくと、もう既に何回も転調しているのです。まず、この
魔術のような転調に開いた口が塞がらなくなりました。そして、第2主題のモチーフがヴィオラとセロのユニゾンで提示される頃には、もうコーヒーが冷めてしまったのもおかまいなく、そのしっとりとした響きに聴き惚れてしまっていました。続いて、ゆったりとしたピアノの三連符のアルペッジョにのって第2主題が展開されてゆくくだり。思わず息をのむ同主調移行の美しさ。それだけではありません。再現部では、シャープ系の遠隔調にまで行ってしまって、いったいこの先どこに連れてゆかれるんだろうと思っていると、弦楽器によって形成されるニ長調が静まりゆく中、ハッとさせるように、ピアノがあの懐かしいフラット2つの変ロ長調(つまり、原調の平行調)で突然第2主題を歌い始め、予想もしなかった、意外な原調復帰のための複調を見せてくれました。本当に懐かしい感じ。・・・・・また、もとのテーマに戻って来たんだな、という感を醸し出す、効果的な再現でした。この三度下の複調が決定的なショックとなりました。あとでいろいろとアナリーゼすると、この作曲家は、「レクイエム」の『アニュス・デイ』等でも同じ複調を用いているのですが、再現部の原調復帰だけに、これほど効果的なものは他にはありませんでした。

 ともかく、この転調の妙味…ただ、変わった転調をやっているのではなく、遠隔調と近隣調が絶妙なバランスを保っていること、原調復帰への計算されつくした奥の手が、全く計算を感じさせることなく自然に扱われていること。それらにも増して作曲家自身の素晴らしい美意識・・・・・これらを耳にして、
長年ぼくの求めていた音楽はこれだ!! と、ほとんど直感的に思ったのです。誰の何て曲だろう? 1楽章が終わってすぐにレコードジャケットを見せてもらいました。

 
フォーレ作曲「ピアノ四重奏 No.2」

 ぼくにとってはこの曲が最初のフォーレの室内楽曲でした。今にして思えばラッキーな出会いでした。もし、No.1のピアノ四重奏だったら、当時、ショパンの晩年の和声進行を既に知っていたぼくには、これほど感銘を与えなかったでしょうし、一方、フォーレ晩年の難解なものだったら、理解できなかったかもしれません。

 演奏は、ピアノ;マルグリット・ロン、ヴァイオリン;ジャック・ティボー、ヴィオラ;モーリス・ビュー、チェロ;ピエール・フルーニエ、で、GR盤「巨匠シリーズ」の中の一枚でした。
 1940年6月10日の午後、ドイツ軍がオランダに侵入した日、そして、ティボーの長男が戦死する前日にパリのスタジオで録音されたものだ、とのロンの手記が載っていました。録音の状況からしても、まことにすさまじい演奏で、その後、ユボー、ヴァランタン、コラール等がピアノを弾いて収録したCDと比較しても、これは世紀の名演です。…

 曲は1楽章のあと、ピアノの音譜の一粒一粒が飛び散るような病的なスケルツォを経て3楽章で、
形而上学的な美の極致に至ります。鐘の音を象徴するピアノが提示され、弦楽器3本は、まるでその鐘の音がはるかな地平から伝わってくる空間をゆらめく風のようにそれを優しく包み、その響きを変遷させてゆきます。この3楽章は最後まで美しくない瞬間は片時もありませんでした。そして、終楽章のテーマいっぱい総出演の、複合ロンドソナタ形式とでも言うべきフィナーレ。どれをとってもつまらない楽章は一つもないばかりか、4つの楽章は非常に有機的にかかわっているのです。いつの日か、室内楽を演奏したり作曲しよう、と思ったのは、この時、フォーレのピアノカルテットNo.2から受け取った大変なショックのためでした。

 もちろん、その頃は演奏はピアノソロをメインに考えていましたし、作曲においても、まだ、ピアノ曲の領域でやることがいっぱいありましたから、すぐに、というわけではありませんでした。が、
ショパンが晩年にゆきついて、わずか、Op.60のバルカローレとOp.62のノクターンに集約した境地がそれっきり音楽史で孤立してしまっているのではなく、明らかにフォーレの一連の室内楽曲に引き継がれていること、従って、ぼくも、本能的に、その方向に進んでゆくだろうこと、をほとんど確信していました。全て出会いは偶然なのです。その偶然の何パーセントを必然にしてゆけるか、ということが、人生の快楽の度合いを計る最も有効なバロメーターだとぼくはずっと思っているのですが、このフォーレに限っては、そのように考える余裕も無いほど強い必然的な出会いだったようで、あの日から約1ヵ月というもの毎日「ネルケン」で、この「ピアノ四重奏No.2」を聴き、アカデミアに輸入を頼んだ楽譜を手に入れる、かなり前に、全て暗譜してしまっていたのです。




 こうして出会ったフォーレが、いったいイデオロギーにおいて何主義なのか、今だにぼくには適当な言葉が見つけられません。まず、普遍的な美や情緒の存在を信じていた、という点において、明らかにフォーレはロマン派ではありません。が、一方、ドビュッシーの始めたサンボリックな新しい音楽とも無関係にフォーレは存在していました。教会旋法にスポットを当ててそれをリバイバルさせたという点は、フォーレを語るにあたって重要な一要素だとは思いますが、これは作曲技法の一部に過ぎません。今だに、ぼくにとっては、「フォーレ」は「フォーレ」でしかありません。ただ一つ、ぼくが強く感じるのは、
文学における、松尾芭蕉やリルケの生き方がフォーレのそれと非常に似通っている、ということです。


 さて、フォーレの作品全般について、それを初期、中期、晩年、と分けて考える方もいらっしゃるかと思いますが、ぼくはこういう捉え方には反対です。第一、晩年に向かって進歩し続けなくてはならないほど才能の欠落していた作曲家はベートーヴェンくらいのもので、モーツァルトのように早熟でなくとも、普通は、ある時期で作風は確立されていて、その後は、それをベースにして、
純化と拡張を行なっているからです。それに、フォーレは、こういう、ロマン派→近代→現代、の過渡期を生きた人ですから、和声の扱いが変わっていったのは当然のことですし、また、こういう時期でなくても新しい和声を求めてゆくのは作曲家として当然の行為で、何のバロメーターにもなりません。初期のノクチュルヌがショパン的で、一方、晩年のアンプロンプチュに全音音階を使っていても、両者とも、フォーレの信じる普遍的な美や情緒をめざして書かれたものならば、初期とか晩年とかの区別は適切ではありません。

 ぼくの考えでは、フォーレは歌曲から書きはじめ、おそらく「レクイエム」を書くことによって、全ての作風を確立したと思います。そして、その後、死ぬまで、フォーレはちっとも変わっていません。ただ、純化と拡張を行なっているだけです。もちろん、純化と拡張の仕方によって、作品を傾向でいくつかの群に分けて考えることが出来ます。例えば、室内楽曲全10曲について、ぼくは下記のようにざっと分けてとらえています。




  A.ヴァイオリンソナタ No.1、ピアノ四重奏 No.1


  B.ピアノ四重奏 No.2 → ピアノ五重奏 No.2


  C.ヴァイオリンソナタ No.2、チェロソナタ No.1


  D.ピアノ五重奏 No.1 → 弦楽四重奏曲


  E.チェロソナタ No.2 → ピアノ三重奏曲




 Aは、レクイエム作曲以前に書かれた2曲で、いずれもフォーレの作品としては習作の域にあるものです。もちろん、ヴァイオリンソナタNo.1は、ブラームスのヴァイオリンソナタNo.1よりも先に書かれたことで評価が高いのですが、「ブラームスの先を行っていたから偉い」とは、何ともフォーレに対して失礼な評価です。こと、室内楽におけるフォーレの才能は、内面性においても、モチーフ操作、構成、音響力学等技術面においても、ブラームスよりもはるかに優れていましたから。もちろん、この2つの作品は既に傑作であり、教会旋法が使われる等の独自性が打ち出されています。が、この後に作曲された8曲に比べるとまだ本領発揮には至っていません。

 
さて、フォーレの本領発揮の室内楽曲は、従って、B〜Eの作品群であるわけです。

 まず、Bの2曲は、一種の形而上学的な純化のプロセスをたどっている作品群です。ことに両者の緩徐楽章にはそれがよくあらわれています。この内、ピアノ五重奏No.2はフォーレの晩年、ほとんど耳が聴こえなかった頃に書かれたことを考えると、奇跡としか思えない恐るべき作品といえます。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏など、はるかに単純な和声で書かれていますから、耳が聴こえなくても技術的に十分作れる作品ですが、このフォーレのピアノ五重奏No.2は複調や無調など、耳の聴こえる人でもかなり扱いにくい複雑な和声構造で書かれているうえ、それらのいくつかは、フォーレ自身にとっても新しい、初めて用いる手法なのです。これらの響きを耳で感覚的に確かめることも出来ず、頭の中で整理しながら曲の終結に向かって解決してゆくには、相当の忍耐力が必要です。穏やかな曲の表面とはうらはらに、フォーレは精神的に非常に強い人だったと、ぼくは思います。そしてそれゆえに、このピアノ五重奏No.2の演奏には厳しいものが求められ、フォーレの室内楽の演奏においても、この曲が最後の目標とされるのは当然のことです。

 同じような厳しさの求められるフォーレにしては大変に強い曲が、Cの2曲です。これらの2曲は、ピアノ五重奏No.2と同時期、最晩年に向かって枯れてゆくプロセスで生まれた作品ですが、いずれもデュオという簡素な編成ゆえに、フォーレの同時期のピアノ曲等と共通する要素の方が多く、ピアノ五重奏No.2とは一線を画している作品です。「レクイエム」しか知らない人達にとっては一番ショッキングな作品ですが、フォーレがこの世に生まれて来て一番書きたかった作品はこのあたりだとぼくは思います。いずれも、重要な旋律を除いて、全てがモチーフのポリフォニックな積み重ねから成り立っています。その意味で、フォーレの古典音楽、特に、バッハへの並々ならぬ傾倒の感じられる作品です。換言するなら、フォーレの室内楽曲の成功の種明かし。これだけの対位法的基礎がフォーレを成り立たせているのです。よく、フランクのことを「フランス近代のバッハ」なんて呼ぶ音楽評論家がいますが、このあたりのフォーレの作品について、ちゃんと楽譜読んで下さいよ、ってぼくは言いたい。フランクが、『コラール』『プレリュード』『フーガ』『アリア』なんて、バッハと同じ題名の曲をたくさん書いていることに惑わされてはいけませんね。フランクのフーガは対位法的発想ではなく、和音の一部の偶然の横のつながりから出来ていて、ラフマニノフと五十歩百歩の対位法しか使っていません。おそらく、フランス近代の作曲家でバッハの考えたフーガをバッハと同じ発想で、ポリフォニックに正しく使えたのは、フォーレとその弟子のラヴェルだけでした。(ドビュッシーは自著「クロッシュ氏」で自ら述べているように、バッハの平均率を和声的に楽しんでいたので、ここでは関係ありません。)その意味では、
フォーレこそ、「フランス近代のバッハ」にふさわしい人です

 Dの2曲は、凝りすぎのきらいのある不可解な作品群です。ヴュイエルモーズは、これらの作品がなかなか大衆に理解されないのは、聴衆の耳が怠惰なためだ、と言っていますが、この状況は何十年もたった今も変わっていません。第一、どちらの曲も今だに名演が出ていません。ことに世の弦楽四重奏団で、フォーレの弦楽四重奏曲を好んでやるグループは皆無です。ぼくの見るところ、一つには、いずれの曲も教会旋法にこだわりすぎたこと、また、もう一つには曲想に比べて書かれた編成の方が1本か2本、横の線が多すぎると思います。これが、この2曲が失敗(失敗と言ってもフォーレはショパン同様、駄作のない人ですので、他の魅力的な作品に比べて外部に与えるインパクトが弱い、という程度の意味ですが)の理由のように思います。横浜の作曲家の八木下さんとはここで、ぼくは意見が合わないのです。彼は、ピアノ五重奏No.1が大変に気に入っているのです。確かに、素晴らしく美しいテーマです。でも、モチーフ処理を見ていると5本の線は生かしきれていないとぼくは思うのです。また、1楽章の第二主題が冷遇されているのは、どうしてなんだろう、とぼくは思うのです。好き嫌いの問題ではなく、ぼくの尊敬するフォーレは室内楽に関しては、もっとパーフェクトな作曲家だったはずだよ、と言いたいということなのです。ですから、この2曲、もし、ブラームスが書いていたらぼくは絶賛しますね。ブラームスは室内楽は大したことないですから、最初から何も期待していませんので、…。

 Eの2曲は、いわゆる、フォーレの最晩年の枯淡の境地にある作品で極めて似通った書法で書かれています。つまり、1楽章はアレグロで、喜びも悲しみも超越してひたすら疾走する状態を示し、2楽章でノスタルジーに浸り、鬼火が飛びかうような3楽章で曲を閉じています。ことに、ピアノトリオの3楽章は、松尾芭蕉の絶句となった『旅に病んで夢は枯野を・・・・・』を思い起こさせるような無窮動で、フォーレの最期の作品にふさわしいものです。(厳密にはこのトリオはOP.120でOP.121の弦楽四重奏曲が絶作ですが、OP.119のノクチュルヌNo.13からOP.121までの3曲はほとんど同時期に書かれており、どちらかというと、弦楽四重奏曲よりもOP.119とOP.120の方がフォーレの最晩年を代表する作品になっています。)

 
「モーツァルトの短調は疾走する。涙は追いつけない。」という名言がありますが、このEの作品群の2曲、チェロソナタNo.2の1楽章のト短調とピアノトリオの1楽章のニ短調の表情は、このモーツァルトの短調の表情に極めて近いものです。

 大体、ぼくはロマン派(一口にロマン派と言っても、ショパンの晩年やブラームスの晩年のような時代を超越した特殊な物は除きますけど)の短調の扱いにはうんざりさせられます。ロマン派の短調は、大体が、絶望や失恋などの個人的感情を押し付けるものが多いと思うのです。でも、少なくとも、ぼくが曲を書く時には、絶対に自分の個人的な感情を、演奏者や聴衆に押しつけたりはしたくない。叙情的でも、モーツァルトやフォーレのような、リリシズムを保っていたい、と思っています。そのためには、(ブラームスのようにシンフォニーにパッサカリアを使うようなことまでは必要ありませんけど)かなり古典音楽を勉強して、自分の血や肉にしておかなくてはいけない、と常々感じています。




 以上のように、フォーレの室内楽にもいろいろな作品があって、その世界の拡がりは、一人の人が全てを好きになることが出来ないほどです。最近は、フランス近代音楽が急速に日本でも定着してきています。まだ、全部味わっていない皆様も、この豊かな世界を是非試していただきたいと思っています。で、フランス近代音楽と言えば、フォーレ、ラヴェル、ドビュッシー、の3人が代表であることは言うまでもありませんが、全然異なっています。それが、また、楽しいのですが、特に、フォーレについてぼくが感じることは、
フォーレの作品はドビュッシーやラヴェルに比べて決してインターナショナルなものじゃない、ということです。あくまでも、フランス的な明澄さとモデスティーに基づいていること、そして、こうした要素が作品の中で使われている教会旋法と相まって、特に日本的風土には馴染みやすい音楽だというふうに思っています。


 

カザルスホールにて

1988.2.21.カザルスホール
第1回アマチュア室内楽フェスティバル
フォーレ「ピアノ四重奏 No.1 OP.15」
〔ラヴィーヌ・カルテットでの出演〕風景
(大正海上文化財団撮影)


 4年前、やっと「原宿マ・ノン・トロッポの会・サロンコンサート」で、ラヴィーヌカルテットメンバーで、ぼくがピアノを弾いて、フォーレのピアノ四重奏No.2全楽章を演奏出来ました。一つの大きな夢がかないました。


また、その時の演奏のライブ収録テープでもって、「御茶ノ水・カザルスホール・アマチュア室内楽オーディション」の予選を軽く突破出来、審査員の先生方、特に、その中の一人、オランダ在住のヴィオラ奏者の今井信子さんに高く評価していただけたことは、とても嬉しいことでした。その他でも、ピアノソロの練習時間が取れなくなるほど、弦楽器の皆様に誘われて、いろいろ、やりたかったフォーレの室内楽曲は演奏会でほぼ全部やれて来ていて、とても満足しています。

1988.2.21.カザルスホール

1988.2.21.カザルスホール
第1回アマチュア室内楽
フェスティバル
フォーレ「ピアノ四重奏1番」出演後
「ラヴィーヌ・カルテット」メンバーと共に
「ピアノと遊ぶ会」のみんなから
いただいた花束に包まれて。





 が、この頃でも、フォーレのピアノ四重奏No.2が聴きたくなった時には「ネルケン」に行って、ロンのレコードを聴くことにしています。このCDはもちろん自宅に持っています。が、初めて「ネルケン」で聴いた、あの暑かった日と同じ気分や感動を大切にしたいからなのです。(そして、もちろん、二度とあの頃の若かった自分に戻れないことを確認させられるのですが・・・・・・・。)こうした全く不合理な感傷がこれまでぼくが出会った音楽には全てつきまとっていて、それが重要なのです。だから覚めた目で自分のレパートリーを眺めるなんてとても出来ません。浅薄なセンチメンタリズムだ、と一笑に付されるかもしれないけど、こういう感傷的でノスタルジックな気分に浸れるほどの作品への愛情もなく音楽をやることはぼくには出来ません。

音楽の世界では、よく、世のため人のために努力しているのです、本当に作曲や演奏は辛いことなんですよ、という顔をしている人に出会います。辛いのならやめればいいのになあ、って思うんですけど。大体こういう人はすっかり覚めてしまっていて、こんな感傷なんてとうの昔に置去りにしてしまっているので、原則として、ぼくはこういう人達とは、
お友達になってあげないことにしています!!

ピアノ・アソシエーション・コンサートにて

1989.秋.ピアノ・アソシエーション
サロンコンサートにて
フォーレ「ピアノ四重奏 No.2」
ラヴィーヌ・カルテットでの出演

 










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