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『モーツァルト』



岡田克彦


(1980.12.19.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1990年3月号)』に掲載)


BGM;モーツァルト『ピアノソナタ K.545』(エンドレス)
(リンク先・山崎真氏制作MIDI)



「岡田君はモーツァルトと比べてベートーヴェンをバカにするけれども、所詮、比較できないものだよ。君の言うように モーツァルトはもともと神の近くにいたのかもしれない。また、ベートーヴェンは、下界の方にいたのかもしれないけど、 最後には、後期のピアノソナタや弦楽四重奏のような神に近い作品を書いている。この、晩年において、ベートーヴェンは ベートーヴェンなりの神の境地に達しているんだ。個々人の好き嫌いは別にして、このことは普遍的に認められなくては ならないことだ。」

大体において、おせっかいな人格者の多いベートーヴェンファン達は、これまで、ぼくとの間に行われた実りのない 一連の論争の中で必ずやこう言ったものです。…もちろん、ベートーヴェンの好きな連中は人間的にはいい奴が多く、 だから友達も結構多いのだけど…

冗談じゃない! 神様が何人もいたらたまらない! 例えば、サン=サーンスのサン=サーンスなりの神様を考えること がいかにバカげたことか。ベートーヴェンのようなおぞましき俗物を神のそばに置くことなど、とてもとてもできるもの ではありません。このように、ぼくにとっての「モーツァルトは神のそば、ベートーヴェンははるか下界」は、ガリレオの 「それでも地球は回る」と同じくらい絶対的な公理であります。ちなみに、ショパン、ドビュッシー、滝廉太郎も、 ぼくと同じ意見のようです。そして、モーツァルトを知れば知るほど、神様もこの公理をお認めになるのではないか と思うのです。

例えば、K.426の2台のピアノのためのハ短調フーガ、フーガの技法としてはバッハには遠く及ばないものの、複調や 無調等、当時としては考えられないような前衛的な手法が用いられている恐ろしくなるような曲です。ぼくは、何も、 前衛的だからいい、と言っているのではありません。こういった前衛的な手法が、先人の模倣ではなく、モーツァルトの 耳からのみ、オリジナルとして得られたものだ、ということがスゴイと思うのです。これに比べれば、ベートーヴェンの 晩年の作品など、彼にしてみればスゴイのかもしれませんが、まだまだ、下界の凡人の努力の領域で行なわれているに すぎません。その証拠に、ベートーヴェンの後に続いたドイツロマン派のベートーヴェンと似たり寄ったりのゲルマンの 凡人連中は、バッハ、モーツァルト以上に作曲技法を発展させられなかったじゃないですか。

ともかく、このフーガのような時代を超越した作品は、バッハを除けば、モーツァルトにしか書けなかったと思います。

このように、モーツァルトの天才性は、彼が、全く、音を自由自在に操ることができたこと、換言すれば、彼が音楽それ 自体であったことに求めることができます。確かに、モーツァルトは、ああいう時代の作曲家ですから、当時の聴衆を 意識したウケるだけの曲も書いていますが、この、後に弦楽四重奏に編曲されたK.426の2台のピアノのためのハ短調フーガ などのように、聴衆など眼中になく、ただ、音楽とだけ対峙した時には、ふつう常識では考えられないようなとんでもない ことをしでかしているのです。こうした「モーツァルトの遊び狂い方」という深遠なる命題について何ら意識せず、 ただ気持ちよ〜く素敵なモーツァルトを聞き流す人が多いことは全くもって残念なことです。

ところで、モーツァルトは子供に弾かせた方がいい、なんて言い分、あれは明らかに間違っています。ちょうど明るい ものが暗い中でこそ引き立つように、モーツァルトの純粋さはロマン派以後の音楽にドップリと浸ってみて初めて見えて くるものです。それに、生半可なメカニックでやってもらっちゃ困る。モーツァルトの作曲のモットーは「油のように、 流れるように」なんだから、これは、つまり、一つのフレーズが一つの見事な和音の解決によって終わることの積み重ね を大切にする、ということです。従って、絶対的に正しくない音程のため和音が解決しないような弦楽四重奏の演奏や、 粒の乱れた余裕のないスケールのピアノ演奏のような公害に近い演奏はモーツァルトに関してはやめていただきたい。 やっていいことといけないことがあります。神のそばのものが欲しいなら、自分を神のそばまで高めてから手を出す ことです。それを下界にひきずりおろす、なんてのはボウトクですぞ。まぁ、ピアニストがモーツァルトのピアノ ソナタなんかをやるのなら、ショパンのエチュード等は当然のこと、ラフマニノフのエチュードやラヴェルのスカルボ なんかも軽〜く弾けてからにしてもらいたいものだと、ぼくは思っています。

嬉しいことに、モーツァルトのピアノコンチェルトにはいい曲がいっぱいあります。戴冠式を除く20番以降は全部傑作です。 20番終楽章のニ短調の不安定なモチーフと最後に登場するニ長調への転調、21番1楽章の第2モチーフのひらめき、22番 終楽章の三連符、23番2楽章の嬰へ短調の絶品…しかし、オペラブッファ的な17番の転調もスゴイ。

「モーツァルトの短調は疾走する。涙は追いつけない。」なかなかうまく言ったものだ。小林秀雄のエッセイ 「モオツァルト」の中で唯一すばらしいのは、この引用だけかもしれません。ものすごく深い悲しみをこれほどさりげなく 示すことのできた作曲家を、ぼくは他に知りません。わずかに、「昨日の不協和音は今日の協和音」と平気で口走った ドビュッシーには、同質の才能があったかもしれない、と想像できるのみです。この種の感動は、狂気の一歩手前の 穏やかな静寂の中にあります。ベートーヴェンからの感動は、ノーマルな状態でも十分に強く胸を圧迫するため、 誰でも感知できるかと思いますが、モーツァルトのこのようなあまりにも純粋な深い悲しみを察知するのは、 感受性の乏しい、世俗にまみれた下界の凡人にはちょっと無理でしょう。

以上、ベートーヴェンの曲を聴きこんだり、レパートリーに加える必要もないハンマークラヴィアソナタをコツコツと 仕上げたりすることの好きな、生真面目な下界の人間とは、およそ関係のない議論を一部掲載いたしました。 かなりなモーツァルトファンにおいてさえ、彼の音楽そのもののスゴさや本質を見ようとせず、ベートーヴェンに つながってゆく、どーでもいい音楽史上の連なりだけを意識する人が多いようです。それだけに、ぼくがここで いくらモーツァルトのすばらしさを力説しても始まらないのかもしれません。なぜなら、聴衆や演奏者が一方的に 音楽を選べるだけではなく、逆に、

音楽は聴衆や演奏者を選びますから!!

ベートーヴェンの後期に選ばれたような人は、それなりに、少しは神に近づいたと思って自己満足している 下界で感動し、平々凡々と一生を終わればよいのかもしれません。








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