作曲活動についての、2008年年初にあたっての反省
作曲活動についての
2008年年初にあたっての反省
(2008.1.8.執筆)
去年2007年は、新作「記憶の底の栗林公園 OP.111」を作曲、初演しましたので、母の没後、SNSの皆様の励ましによって、それなりに頑張りましたので、悔いはないです。
が、やはり、2008年の年初にあたり、気持ちを新たに、数年前からの母の介護のために中断していた自作自演活動の再開の前に、ぼくの作曲活動の原点に立ち返って、反省すべき点は反省しないといけないと思って、これを書くことにしました。
ですから、以下書くことは、半分は、ぼく自身に言い聞かせたい、という内容になっています。
1983年の25歳当時、本物の作曲家はすごいことを、ぼくは東京で目撃しました。
ぼくの作曲の恩師の座光寺公明さんの、「一緒に作曲しようぜ。」というのが、彼の作曲のレッスンへの誘い文言でした。
場所は、新宿東口の新宿中村屋の中地下の喫茶『マシェーズ』でした。
2回目に会った時、ぼくより一つ年下の彼は、ものすごく大きな、オーケストレーションのできるスコアを持って来ていました。
そして、デイトの待ち合わせ客とBGMでガヤガヤとうるさい時間帯の『マシェーズ』で、コーヒーを飲みながら5時間ばかりで、ぼくの目の前で2台のピアノのためのピアノ協奏曲を、オーケストラパートも全部書いてしまったのです。
ぼくは、向かいの席で、5時間かけて、でも、一生懸命、頭の中で絶対音を響かせて、フルートソナタの一番の一楽章の途中まで書きました。でも、精神力はそこで尽きました。
書けるところまで書いて、ぼくはスコアを彼に見せました。
「よくがんばったね。ピアノのないところで君が出来るかどうか実は不安だったんだけど、たぶんできると、これまで君の書いたスコアを見て、ぼくは出来ると賭けたんだよ。ここまで書けたらOK。思ったとおり、あなたの絶対音感は間違いないから、楽器に頼らないでいい作曲が出来ますよ。ところで、これ、ソナタですよね。うーーーん、ちょっとぼくの感想だけど、スクリャービンの3番のソナタ、また、機会があれば、アナリーゼしてみたらどうかな。それと、サンカンのフルートソナタは、参考になると思いますよ。」
実に的確なアドバイスでした。
そして、その翌週が、座光寺公明さんの、「2台のためのピアノ協奏曲」の初演でした。彼が指揮をしましたが、素晴らしい作品でした。
25歳当時のぼくは唖然とし、完全に彼に参りました。
もちろん、そんなに出来ない作曲家もいましたけど、出来る人は出来るのです。
そういう出会いがあったので、ぼくは東京にいてよかったと思ったものです。高松にはこういう作曲家は生息していないと思います。
それだけに、高松や岡山での自作自演活動にあたっては、常に、当時ぼくが受け取った衝撃を大切にしてゆきたいと思っています。
掲載写真は、29歳で急死した、ぼくのかけがえのない、作曲の恩師、座光寺公明さんの、元気だった頃の写真です。現在、ロンドンにいらっしゃる座光寺公明さんの奥様から送ってもらったものです。
結婚してまだ1年にならなかった1987年、座光寺公明さんは、急性心不全で急死しました。
ぼくの執筆した音楽エッセイ中、一番悲しい内容の「マシェーズから、座光寺君に宛てて」(下記をクリックすればご覧いただけます。)を彼女は、彼女の友人がぼくのホームページで見たとのことで、知らされて、ロンドンで読まれました。
そして、ぼくにお手紙を下さいました。その中には、下記のように、書かれていました。
「岡田さんのエッセイを読んでゆくうちに、忘れないといけない、忘れようと努力した思い出がよみがえってきて、最後には、私の頬に涙が流れました。」
ぼくは、これを高松で読んで、泣いてしまいました。ご結婚されて10ヶ月目のご主人の急死だったのです。奥様の受け取った衝撃はいかばかりかと思いました。『忘れようと努力』するしかなかったと思いました。
そして、ぼくの母が亡くなって100ヶ日が過ぎた、2007年の年初、奥様は、座光寺公明氏の没後20年の追悼ホームページをロンドンで立ち上げました。下記をクリックすればご覧いただけます。
その資料収集のため日本に帰国した際、高松のぼくに面会するため、高松にいらして下さり、高松の全日空ホテルに宿泊してました。ぼくは面会に行き、高松の瀬戸内の小魚の美味しいお店にご案内し、座光寺公明さんの思い出話をし、以来、ロンドンから毎月のようにお便りや、彼の残した楽譜等をご送付いただいています。
彼には生きていてい欲しかった。ぼくなんか死んでもどうってことないのだ、って思いました。
でも、ぼくはまだ生きています。生きて作曲している以上、恩師の座光寺公明氏の弟子として恥じない作品を書いてゆきたいと思っています。それは、ぼくの義務なのです。