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政権交代に、香川県人として期待すること




作曲家  岡田克彦


(2009.6.18.執筆)


BGM;せとちとせ作詞作曲・岡田克彦編曲:「讃岐ブギウギ」(エンドレス)
(ボーカル;せとちとせ、津軽三味線;筒井茂広、ピアノ;岡田克彦)
2009年4月19日・おいでまいフェスタ・チャリティコンサート 初演ライブ収録〕
曲目解説と歌詞カード





今回は、このホームページ併設ブログに執筆している、香川県の偉大な文化の『讃岐うどん』のご紹介を書いてゆく中で、今回の、政権交代するかもしれない永田町や霞ヶ関の状況に、 香川県人として痛感していることを書くことにしました。


私は、1957年に高松で生まれ育ち、早稲田大学時代から、卒業後、住友信託銀行に就職して、母の介護のために、1994年に高松にUターンするまで東京で働いていましたので、東京には、20年住んで、 勉強したり、遊んだり、働いていました。


東京に住んで、住友信託銀行で働いてよかったことは、お金というものの限界、人間性に及ぼす悪影響を痛感したことでした。ことに、資産家の相続や遺言の手続きを通して、このあたりの 人間の裏側を見ることが出来ました。


また、「日本アマチュア演奏家協会(APA・エイパ)」の理事をして、 ありとあらゆる室内楽演奏を通して、純粋なアマチュアアーティストの人達と出会えたこととの好対照を如実に感じたものでした。


その結果、この世には、お金で買えるものと絶対に買えないものがあることを、明確に区分することが出来ました。


ですから、高松に住んでいた、母・岡田直子が、肝硬変で倒れた時、自分で介護しないと絶対に後悔すると思いましたので、私は、迷うことなく、転職して、高松にUターンしました。


母の介護は、お金でけりをつけるべきものではないと確信したからです。


大蔵省の指導で、高松には、住友信託銀行の支店は絶対に開店できない状況にありましたので、転職するほかなかったのですけど、転職して年収が激減するということについては、 なんとも思いませんでした。当時は、バブル崩壊後少し経った頃でしたが、住友信託銀行で調査役補をしていた私の年収は、1200万円程度でしたので、高松に転職してUターンしたら、 年収は3分の1以下になることは覚悟していました。が、私の中では、800万円の年収を失っても、母のそばにいてあげるべきだと考えました。


まあ、年収が多くても、私は、独身主義で生きていましたので、東京にいた頃は、結構、贅沢にも、六本木界隈のフランス料理店をかたっぱしから回ったり、いろんな演奏会にも聴きに 行っていました。すごい時には、演奏会を一日で3つ梯子したりしていましたからね(笑)。


また、住友信託銀行で働くということは、私のライフワークではなかったのです。私のライフワークは、11歳の時から、作曲でしたから、自作自演の機会が少なくなることは気になりました けど、努力は必ず報われますので、どうってことなかったです。


あたり前ですけど、住友信託銀行で16年間働いたのですから、キャリアは自然に身についていました。あの頃は、労働者派遣法が施行された頃で、キャリア、キャリア、と騒ぐ風潮が ありましたけど、資格を持っていてもそれを活用するコミュニケーション能力などの人間力のない人はお話にならないと思っていましたので、自作自演をやって、自分の心の叫びを 共演者や聴衆に音楽に乗せて伝えるような高度なコミュニケーションをずっとやっていたのですから、キャリア、キャリア、と騒いで一生を終わる人は、ろくな死に方をしないだろうと 思いました。


だって、お金で買えるものは、全て、つきつめれば、人間の煩悩に過ぎないからで、資格というキャリアも、煩悩を満たす方便の一つに過ぎないのですから・・・・・。


もちろん、お金で買えるものと絶対に買えないものの境界線は、人それぞれ違っていますから、私と同じ事態に陥った際にも、年老いた母を老健施設に放り込んで、お金を送るだけですませたい、 という人もいらっしゃると思います。が、作曲をライフワークに生きてきた私は、残念ながら、そういう人間ではないのです。






こうして、「日本マンパワー四国総代理店」のオープンに際して、その、営業統括責任者を捜している状況に偶然出くわし、これをゼロから立ち上げるインフラ整備から一人でやりました。


が、3年後に、北海道拓殖銀行が破綻して、北海道拓殖銀行が東京の「日本マンパワー」本体のメインバンクだったことから、そこからの借入金を、当時の三和銀行が肩代わりしてくれたのでした。 が、さすがは、三和ですね。肩代わりの条件として、全国にいくつかあった地区総代理店の即時閉鎖と従業員の三分の二のリストラを条件につけてきましたので、四国総代理店は順調に業容拡大して 私も部下を2名採用していたのですが、大変なことになってしまいました。私はその後始末のために、岡山の経営コンサルタント会社の社長の導きで、そちらに転職し、一年後まで予定の入っていた 四国のクライアントの全ての研修を東京の経営コンサルタントの先生とつないで、責任を果たしました。なぜなら、四国はとても狭く、クライアントが、四国電力、香川、徳島、高知のJA、漁協、 県庁、市役所などだったからで、突然の代理店閉鎖で放り出してしまったら、私自身の信用が失墜してしまうからでした。


まあ、この時の後始末の激務から、私は、劇症肝炎で倒れてしまいましたので、3ヶ月の入院を余儀なくされましたが、母と一緒の病院に入院して、ここは、くぐり抜けました。


高松へのUターン後、一番苦しかった時でした。が、能天気なんでしょうね(笑)。ちっとも苦しくなかったです。ライフワークの作曲、特に、弦楽四重奏の作曲などは順調に進んでいましたからね。






以上のような次第で、高松へのUターン後、転職を余儀なくされましたが、母が生きているうちは、父の女遊びがひどく、8人目のお妾さんと入籍するような事態になったので、母の薄幸な 生涯のためにも、そばにいて、話を聞いてあげようと思っていました。


が、2006年9月19日に、その母が、脳幹部脳内出血のために急死しましたので、その後は、私自身、一人で生きてゆくことになりました。






いろんなことがありました。


私はもともと、ヒューマニストなので、この世で出会う全ての人との一期一会を大切に生きてきましたが、このような、年収という人間の煩悩の一つに過ぎないお金の面で、転落してゆかざるを 得なかったプロセスにおいて、拝金主義者は、全員、私の友人からオミット出来ましたので、本当に、よかったと思っています。


本当に、仲良くしても意味のない人は、時間の無駄ですので、効率のいい人生を送るためには、仲良くする人は選ばないといけないですね。年齢や性別は全く関係ありません。


もともとの感受性のダメな人は、絶対に改善することは不可能ですので、そういう人達に対して、私は、無理解で生きていたいと思っています。






さて、高松にUターンしてよかったことは、何をさておいても、幼少期の頃から食べ親しんできた、美味しい讃岐うどんとの再会でした。


従って、私の、ホームページの併設ブログにも、讃岐うどんに関することをいろいろと書いていますが、今回、時々食べに行っている、『うどん棒・本店』 (香川県高松市亀井町8-19 TEL.087-831-3204 営業時間;11:00〜21:00 年中無休)のことを書いていて、環境問題について、いろいろと感じることがありましたので、このエッセイを 書くことにした次第です。






『うどん棒・本店』(香川県高松市亀井町8-19 TEL.087-831-3204 営業時間;11:00〜21:00 年中無休)は、セルフではありません。一般店です。


お値段も、香川県のうどん店にしてはちょっと高く、かけうどんが320円もしますけど、これは、美味しいので当然ですし、注文してから茹でてくれますので、随分待たされますが、 その期待を裏切らない、素晴らしいうどん店です。


このお店が出来たのは、そんな昔ではなく、高松出身のうどん店『かな泉』の全盛期(私が中学生の頃)が終わった後ですので、高級だけど、ゆっくり出来る讃岐うどん店という、 しっかりしたコンセプトで始めたお店です。


製麺所のうどんのような、イリコのきいたダシを期待してゆかれると、絶対に裏切られますよ(笑)。特に、やまうち、あたりや、等の西讃出身のお店ではないのです。 香川県の県庁所在地で、四国の中心地の高松らしい讃岐うどん店なので、ダシは、昆布と鰹節です。


麺は、ここだけのオリジナルな細く伸びる麺ですので、こしは固いもの、という間違えた先入観を讃岐うどんに対して持っている方には、是非、おすすめしたいお店ですね。


また、かけうどん、という、一番シンプルなメニューにも、ゆずの皮が載っていて、香りを楽しみながらうどんをいただけますので、素晴らしいです。


以上のように、『うどん棒・本店』のうどんは、讃岐うどん攻略本に載っているようなうどん屋とは全然違いますので、ゆったりと行かれて、お座敷席でゆったりと食べて いただきたいと思います。


そして、香りやダシを、細いしっかりした麺と共に楽しみながら、うどんを噛まずに、そのまま咽喉に流し込むという、正しい讃岐うどんの食べ方で食べていただければ、 素晴らしい咽喉ごしが味わえる讃岐うどん店です。


大阪駅前ビルの中にも支店があって関西方面でも人気のあるお店になっていますので、関西方面の方は、是非、お試し下さい。


私が、『うどん棒・本店』で気に入っているメニューは、『たこ天うどん』、『冷天ぶっかけうどん』、『カレーうどん』、『チャンポンうどん』、『卵とじうどん』、『肉めし』、です。


特に、たこの天麩羅は、素晴らしいです。


また、『吉野家』や『松屋』の牛丼しか知らない東京の皆様には、是非、『うどん棒・本店』の『肉めし』を、味噌汁ではなく、ここの『かけうどん』と一緒に召し上がっていただきたい、 と思っています。


香川県人の私は、『うどん棒・本店』の、『肉めし』と『かけうどん』の組み合わせの方が、『牛丼』と『味噌汁』の組み合わせよりも、数段、レヴェルが高いと思っています。


早稲田大学進学のために初めて上京した1975年の18歳当時、私は、新橋の『吉野家』の「牛丼」を生まれて初めて食べました。栄養もあって安いと思いましたけど、これを毎日食べるのは、 嫌だな、と感じたものです。それよりも、ものすごい人混みでしたので、食べる気が失せてしまったことを思い出してしまいます。


また、1975年当時、大学入学と同時に入った、『早稲田大学音楽同攻会』というクラシックレコード鑑賞会(当時、早稲田大学には、ピアノ演奏の同好会はなかったので、仕方なく 入ったものでした。)の先輩と一緒に入った喫茶店のメニューに、うどんがなかったので、ウェイトレスに、


「どうしてこの喫茶店には、うどんがないのですか。スパゲッティやピザがあるのに、変ですよね。だって、ここ、東京は日本でしょう。」


などと質問してしまい、先輩達に嘲笑われたことなんかを思い出してしまいます。


また、郷里の高松にいた母が時々、東京の野方の下宿に送ってくれた讃岐の郷土料理の代表格の、大西食品の「醤油豆」の真空パックを、(当時はコンビニもない時代でしたから)、 秋葉原の電気屋街で買った小さな冷蔵庫に入れて大切にしていて、やはり、秋葉原の電気屋街で買った、小さな炊飯器でお米を研いで仕掛けた出来立ての温かいご飯に載せて食べてる のを見た、同じ研究室(堀家文吉郎教授の金融論の堀家ゼミ)で一緒に勉強していて、一番仲良しだった、今は、日経新聞本社の証券部のデスクになっている、浜松出身の近藤勝義君が、 私の野方の下宿に遊びに来た時に、私が食べていた「醤油豆」について、「ゴキブリみたいな煮豆だね。こんなものを、君の郷里の高松では食べるのか。」なんて言われて、 大変な衝撃を受けて、ショックだったことも思い出してしまいます。


当時に比べると、今は、ネット社会になって、全国の情報が瞬時にパソコンや携帯電話で集められるし、本場の讃岐うどんを食べるために、全国から香川県に遊びに来る若者も 増えています。しかも、香川県内の大半の讃岐うどん店には、「醤油豆」も置いているので、真空パックで売っている、大西食品の「醤油豆」を販売したり食べさせるお店が、 東京に開店したと、この前の『カミングアウトバラエティ 秘密のケンミンSHOW』で放映していたので、時代は変わったなあ、と思いました。


間違いなく、香川県は、『讃岐うどん』の聖地です。


1200年前に香川県出身の空海が、遣唐使で唐の国へ行って、当時、小麦の発祥地メソポタミアからシルクロードを通って唐の国に伝わった、小麦粉を使ったパスタの原型を出身地の香川県に 持ち帰って、降水量が少ないために、お米が凶作になることが多かった讃岐の人達のために、讃岐うどんを広めたこと、 また、空海が晩年に弟子達に話した、自分が若かったハイティーンの頃修行した、四国の険しい山々のことを元に、空海の死後、空海を慕う弟子たちによって『四国霊場八十八ヶ寺』が確立され、 ここを巡礼することが、空海の弟子たちから、日本の庶民全体に自然に広まり、江戸時代頃からは、全国から、『四国霊場八十八ヶ寺』巡礼の、お遍路さんが四国にやってくるようになったこと、 これに伴い、お遍路さんを受け入れる四国では、巡礼のお遍路さん=お大師さん(空海)、という認識が絶対的に定着して、険しい道のりを巡礼するお遍路さんを『接待』する習慣が確立されたこと、 香川県においては、お遍路さんに、自分達が手打ちした、空海が始めて下さったありがたい『讃岐うどん』をふるまうことが、接待になって、どうすれば美味しいうどんをお遍路さんに楽しんで いただけるかと心を砕いたことから、1200年の歴史の中で、うどんを美味しくするいろいろな秘訣が、自然に育ち、美味しくなったこと、等々、日本のほかの地域では考えられない、いろんな 歴史的な背景から、うどんが美味しくなりました。


ちなみに、イタリアのパスタは、マルコ・ポーロが中国に視察に来て「東方見聞録」を書いた際に、中国で出会ったパスタの原型を、中国から故郷のヨーロッパに持ち帰ったことに始まります ので、『讃岐うどん』の歴史の方がイタリアのパスタよりも、はるかに長いのです。






しかしですね、昔と今を比べて全く変わっていないことがあるのです。


それは、東京近辺に住んで一時間以上もかけて通勤している人達が、東京界隈にはいっぱいいて、地下街も多く空気が汚いこと、しかし、高松は人口も大したことなく、高松市内は大体、 自転車で移動できる狭い場所で、空気が美味しい、という、環境面の落差です。この落差を解消することは、中央集権国家の、今の日本では、ほとんど、不可能だと思います。


名物であり、且、弘法大師が出身地の香川県に唐の国からうどんを持ち帰った平安時代からの1200年の歴史に支えられている香川県の偉大な文化の『讃岐うどん』についても、それを、 食べる前後の空気の美味しさは、その味を決定してしまうのです。東京や大阪の地下街に、どんなに美味しい讃岐うどん店が開店しても、地下街は、食べる前後の空気が美味しくないので、 こういった環境が悪ければ、讃岐うどんの風味は、なくなってしまうのです。


現在、日本各地には、それぞれ、名物があって観光資源になっています。


しかし、『讃岐うどん』は、その長い長い歴史を背負っているので、お金で買える名物や観光資源ではなく、文化なのです。


従って、『讃岐うどん』は、香川県の気候や風土、空気の美味しさのような環境や住んでいる人達の人柄と不可分なのです。






もうすぐ、政権交代があるのかもしれませんね。でも、新たに総理大臣になる人には、このあたりの、東京界隈や大阪近辺と、四国高松の、環境面の落差を是正するような、努力を していただきたいと痛感しています。そして、このことは、世界規模の、環境問題よりも、優先順位を高くしていただきたいと願っています。


また、『讃岐うどん』の提供価格は、1200年の歴史に支えられている香川県内での設定価格が適正価格であることを基準にして、全ての物事を考えましょう。


香川県内の『讃岐うどん店』の設定価格が安いのではなく、東京や大阪界隈の『讃岐うどん店』の設定価格が、不動産の代金などのせいで、高すぎるのです。


日本国民は、享受する権利において、全て、平等でなくてはなりません。


従って、今度就任する総理大臣は、香川県綾歌郡綾川町の『山越』の釜玉うどんと全く同じ水準の釜玉うどんが、現地と同じ価格の200円で、東京においても日常的に食べられるような環境設定 のための資金援助を断行する程度の力量のある人でなくては、お話にならないと、私は思っています。


小泉さんが首相の頃、東京は勝ち組、全ての地方都市は負け組、とお決めになったのですから、この程度のことは、勝ち組の東京ならば簡単に出来ることじゃないですか(笑)。


そして、もし、この程度のことも出来ないのならば、東京が勝ち組だと思い上がるのは、今後、一切、やめていただきたいものだと思っております。









関連ブログ → 『うどん棒・本店』












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