inserted by FC2 system
  1. 無料アクセス解析
ご来客数;



『マシェーズから、座光寺君に宛てて』




岡田克彦


(1989.2.23.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報(1989年4月号)』に掲載)




BGM;岡田克彦1988.5.1.(31歳当時)作曲;

「クラリネットとピアノのためのドメスティックなラプソディー OP.61」
・・・・・クラリネット奏者・春日茂君に献呈・・・・・


(1988.8.7.東京目黒ミュージックプラザ『音楽仲間たち』ライブ収録)

〔クラリネット;品田博之、ピアノ;岡田克彦〕





関連エッセイ;

作曲活動についての2008年年初にあたっての反省

Addressed to Hiroaki Zakoji from “Ma chaise”by Katsuhiko Okada
(このエッセイの、故.座光寺公明氏追悼ホームページ内掲載英訳分)



作曲家・故.座光寺公明氏の追悼ホームページ;

Hiroaki Zakoji in memory


●このホームページの音楽を試聴するにはWindows Media Player以外にRealOnePlayerが必要です。
RealOnePlayerの無料ダウンロードはからどうぞ





今、新宿中村屋の中地下にある喫茶「マシェーズ」の美味しいローストチキンサンドを食べながら、一人で、新作『ヴァイオリン、クラリネットとピアノのための三章』 (光栄なことに作品番号はあのショパンのノクターンと同じ62になる予定です。)を書いてます。2月12日のカザルスホールオーディション打上げパーティーの 席上でプランを思い立ち、もう7曲は書いてしまったけど、あと3曲くらい書いた中から選ぼうかなと思ってます。 ここ「マシェーズ」は座光寺(ざこうじ)君と一緒の時も、もう永久に一緒に来れなくなってしまった後も、よく作曲しに来て いる貴重なスペースです。そう言えばここで初めて一対一で会った日、お互い顔がわからなかったので、座光寺君のスキー焼け した真っ黒な顔が目印だったんだよね。昨日のことのように覚えてるけど、もうあれから5年以上になります。






座光寺君が突然急性心不全で亡くなったのは、一昨年の1月、有森直樹君の「日本音楽コンクール優勝祝賀パーティー兼 ピアノと遊ぶ会忘年会」で同席してから、わずか1ヶ月足らずのことでした。その忘年会の三次会の開かれた、ベートーヴェン の第九の流れる新宿の喫茶「ダフネ」で、東芝EMIクラシック部長の作曲家の幸松肇さんと、座光寺君とぼくの3人で、 メシアンについての議論に熱中してしまい、ついに終電に間に合わなくなるからと、一人席を立った彼。

「そうそう、座光寺君はまだ新婚ホヤホヤだもんね。奥さんが待ってるから帰ってあげなくちゃ。」
「そんなにちゃかすなよ。いや、もう半年近くなるとね、実は倦怠期なんだよ、ウン。今日は作曲の仕事があるんで徹夜 するんだ。じゃ、また。」
「さよなら。よいお年を。」

爽やかな照れ笑いを残し、ベージュのトレンチコートを着て、茶色のショルダーバッグを肩にかけて出て行く彼を見送ったのが 最後になるなんて夢にも思いませんでした。・・・・・ぼくはどうして、あの時一緒に席を立って、彼を新宿駅南口まで見送って 行かなかったんだろう? もし、そうしていれば、この世での彼のバイオリズムの波がそうしなかった場合と違っていて、 彼はずっと一緒に生きていられたかもしれない。・・・・・彼の死を知らされて、あまりのショックの中、最初に思ったのは このことでした。

なぜって、彼は、ぼくの大事な作曲の親友で先生だったけれども、ぼくより1つ年下で、まだ29歳で、結婚してまだ半年に ならない頃で、彼のやっていた「新和樂コンソート」の演奏会にはなかなか聴衆が集まらなくて苦労してたけれども、スイス で彼の作品がクローズアップされたり、熊谷先生の演奏会に初めて彼の作品が取り上げられるなど、全てはこれからという 時期だったのですから。それに、「東京生まれ、北海道育ち」を誇りにしていた彼は、日大芸術学部で音楽と体育を教えて いて、大変なスポーツマンで、冬には志賀高原でスキーのインストラクターもやっていて、出会った当初からぼくに、

「岡田君、体を動かさないでブクブク太っているのはよくないよ。長生き出来なくなるから。なんだかんだ言っても、結局、 長生きした人の勝ちだよ。ブラームスなんか大変なスポーツマンだったんだよ。今度、志賀で作曲じゃなくスキーを教える からおいでよ。」

と、いつもお説教していたのです。彼が死んだなんて、とうてい信じられるものではありませんでした。ぼくは、この2年間、 彼の追悼演奏会に行っても何があっても、まだ彼は生きているんだ、と思い続けてきました。






座光寺君を初めて見たのは1983年の10月、APA(エイパ・日本アマチュア演奏家協会)の友人にもらった招待券で 聴きに行った、市ヶ谷ルーテルホールで開かれた、作曲家の酒井さんやチェロの毛利さんらのシュトルム合奏団の演奏会会場。 プログラムが古典と近現代でおもしろそうだな、と聴きに行ったコンサートでした。そのプログラムの中にあった座光寺公明 とかいう見たことも耳にしたこともない名前の作曲家の 弦楽四重奏曲『亡き人のために』

どうせ、和音の解決しない12音 の音響だけを凝ったつまらない作品だろう、と現代音楽、特に音大卒業生の作品のつまらなさに飽き飽きしていたぼくは、 早く終わればいいな、次のフランクのオルガン曲が聴きたいもんだ、と、まともに聴く気もなかったのです。ところが、 この曲、和音は解決しないものの、明らかにホ短調の響きに執拗に拘っていて、その限定の中で骨太なポリフォニーが構築 されている。
「この作品はすごい!」
ぼくは技法の完全消化と、そして、強烈な自己主張に感動しました。ああ、現在の 日本にもこんなすごい作曲をする人がいたんだ。ちょうど、ぼくは自分の室内楽曲の作曲を通して、 基礎的な部分の欠如を感じ、モチーフの発想を自分の楽器であるピアノから切り離さないといけないことを痛感し始めていた 頃でしたから、この弦楽四重奏曲は大変なインパクトでした。でも、それだけなら、座光寺公明とかいう見たことも耳にした こともなかった名前の作曲家と、あんなに親しくなる必要はなかったのです。曲が終わって、感動でしばらく立ち上がれないで いるところに、聴きに来ていた作曲者の彼が、演奏者の紹介でステージに上がりました。「何だ、ぼくと同じ位の若い作曲家 なんだな。」と思って見ていたところ、演奏者が彼にマイクを差し向けているのです。作曲の背景の詳細な説明でも しゃべるんだろうか、と思っていたところ、突然、彼は、仏教法典の一節を読み始めたのです。

「『生あるものは必ず滅びる・・・・・』この曲は、こうした無常感を象徴する 意識、あるいはある種の思考であります。」
と、たった一言、解説しただけで、ステージ裾へ引き上げて行きました。

『ぼくがこの曲で伝えたかったことは以上だ。それ以上言っても、何も伝わら ない奴には何も伝わらないだろうから仕方ないよ。』
という基本的態度を明確にしただけの解説。

一切の、媚び、へつらい、自己PRもメジャー志向もなく、自信と信念だけの人のようでした。それでいて、あの存在感と カリスマ性。

う〜〜〜ん。この男だ!!
ぼくは、生まれて初めて、作曲を習うべき人に出会えた!!   と直感していました。

早速、友人を介して、チェリストの毛利さんから彼の電話番号を聞き、作品のやりとりと文通が始まりました。1ヶ月ほどして、 座光寺君からの提案で、毎週水曜日の夜、彼は大学の帰り、(ちょうど会社の残業削減キャンペーンの早帰り日が水曜日だった 当時の)ぼくは会社の帰りに、新宿中村屋中地下の喫茶「マシェーズ」で会って一緒に時を過ごし、コーヒー一杯で4〜5時間 も音楽談義したり、スコアを持ち込んで一緒に、しかし、一言も口を聞かずに作曲するという、不思議な場面設定の面会が 始まりました。
偶然にも、彼はぼくとほとんど同い年で、一つ違いでしたので、こんなことになったのかもしれません。が、彼の言い分は こうでした。

「ぼくは、作曲を教えたり習ったりは嫌いなんだ。いいところがあるようなら見習ってもいいよ。だから、ぼくは君の前では 作曲に関する行為を全部さらけ出して何も隠さないから、君もそうして欲しい。お互いに学び合えるところがあれば 最高だな。」

当時、彼がぼくから何か得るものがあったとは信じられないのですが、そのようにされてしまいました。

当時のぼくは信じられませんでしたが、彼はこのBGMのガヤガヤとうるさい、デートの 待ち合わせ客でごった返した喫茶店に、特大のスコアを持って来て、ちょうど書き進めていた、『2台のピアノのための協奏曲』 のオーケストレーションをするというのです。で、「岡田君も一緒に作曲やろうぜ。」何て気軽に言うのです。 仕方がないので、一緒にぼくも書き始めていた『フルートソナタ』をマシェーズで完成させましたが、そのうち、 彼の言うとおり、回りがうるさい方が集中できるようになりましたから、 不思議なものです。この経験は、後で考えると、ピアノからの独立において、 とても重要なものでした。その後、ぼくは室内楽曲は全て、ピアノのないところでも、どこでも書けるよう になりました。それにしても、あんな有名な喫茶「マシェーズ」の一番混む時間に、二人で作曲やってたのですから、ちょっと 有名になってしまいました。

スイス政府からの招聘が座光寺君に来て、彼がスイスに行くまでの半年間続いた、この「マシェーズ」での作曲活動の中で、 彼は彼の恩師の小倉朗先生を紹介してくれ、ぼくも師事しましたが、作曲の基本姿勢についての一番強烈なインパクトは彼から でした。以下、彼から教わったこと。

音楽は聴衆のためにあること。従って、曲は、 演奏者よりも聴衆のことを考えて書くべきだということ。
・ 芸術にプロもアマもないこと。好きな人がやればよいこと。
・ 彼はプロだからそうなのではなく、12音が好きで12音を書いているので、ぼくが、12音が嫌いなのなら、 12音の作品なんか一生書かないでよいこと。
・ 古典音楽、特に、バッハとモーツァルトは勉強しなくちゃいけないこと。

これらのことは、何年かの内に、意識せずに、ぼくの作曲、演奏、「ラヴィーヌ楽派」「ピアノと遊ぶ会」等の演奏会 プロデュース活動の中で、血肉になりました。今にして思えば、もし、彼と出会っていなかったら、ぼくは今日のような 活動は出来ていなかったと思います。一方、具体的な作曲技法は自分で見つけろと、作曲に行き詰まったぼくを励まし、 参考になる過去の作品をサンプルとして紹介するにとどめるような、現状の能力よりもキャパシティーを重視するような 教え方でした。

そして、2人で「マシェーズ」で作曲やってクタクタになって新宿駅まで向かう地下街を歩きながら、いつもこう言って ました。
「音楽や作曲のことだけじゃなく演奏会のプロデュースまでこんなに突っ込んで本音で話せる奴なんて、岡田君だけだよ。 ずっと、一生、仲良くして行きたいな。」

当時、座光寺君25歳、ぼく26歳。2人とも若く、ものすごい覇気に溢れていました。

・・・・このようにして、ぼくは、当時暗礁に乗り上げて、もうやめようと思っていた作曲を続ける自身と勇気と切り口を、 座光寺君から確かに得ることが出来ました。






1989年2月12日。第2回カザルスホールアマチュア室内楽オーディションでの自作「クラリネットとピアノのための ドメステイックなラプソディーOP.61」 の発表の日。ずっと「ピアノと遊ぶ会」や「ラヴィーヌ楽派」のサロンコンサートを続けていたぼくの受賞だったので、 たくさんの演奏家仲間が聴きに来て下さっていました。でも、生涯忘れられないことは、ぼくの楽屋に「座光寺孝子」と 書かれた小さなカードと、まっ赤なバラの花束が届けられたこと、座光寺君のお母様が聴きに来て下さったことでした。 演奏終了後、ロビーでお会いしました。

「本当に今日はおめでとうございます。息子が生きていたら、絶対に来たと思います。でも、もうあの子は2年前に逝って しまったんです・・・・・・。」
このお母様の言葉に・・・・・、ぼくも、ついに、彼の死を納得する しかありませんでした。

もし、彼に、今回のオーディションで1位をとった、このぼくのラプソディー聴かせたら何て言うだろうな、何て考えると 泣けてしまって、回りに演奏家の友人が一杯いたので、タキシードを着たまま、お手洗いに駆け込んでいました。彼の死が 信じられなかった2年間分の慟哭を、ぼくは我慢できませんでした。

あの懐かしい「マシェーズ」での座光寺君との、二度と戻ることの出来なくなってしまった失われた時の懐かしい思い出が 次から次から流れ出てきました。
ぼくの作品の長所も短所も見抜いていて、それをお世辞も謙遜も抜きにはっきり言える人は君をおいて他にはいないんだ。 「スポーツしないと長生き出来なくなるよ。」何て言っといて、ぼくより先に逝ってしまうなんて・・・・・。

この、ぼくの「クラリネットとピアノのためのドメステイックなラプソディーOP.61」を聴いた彼の批判しそうな点の 予想はつきました。
・・・・・・・・・・たぶんモチーフ操作の不足と響きへの依存過多を指摘することでしょう。
・・・・・・・・・・これに対するぼくの反論も予想できます。
「座光寺君の言うことも一理あるけど、でも、この曲で、もう一つ余計なモチーフ操作をやったり、もう一つ響きを無視したら、 モチーフ自体の持つ新鮮味やインパクトが失われてしまうんだ。ぼくは、モチーフを思い浮かべた最初の驚きの瞬間の気温や 湿度が感じられなくなるほどのモチーフ操作は無駄だと思う・・・・・。」
・・・・・・・・・・で、この反論に対する、座光寺君の反応は、たぶん、
「いや、どうしようもなくロマンチストだな、君は。」と、いつものように、それ以上の忠告を諦めるようなものだった でしょう。

でも、それを自分の意見として言ってくれる他者としての、ぼくと同じように曲を書いたり、ピアノを弾いたり、演奏会 をプロデュースしていた、たった一人の親友は、もうこの世からいなくなってしまったのです。大切な人を失って しまいました。






今回のカザルスホールでの受賞は、現時点でのぼくの能力の可能性と限界の両方を一度に認識できた貴重な体験でした。 演奏終了後、当日聴きに来ていた何人かの知らない人達から曲の感想や楽譜送付依頼のお便りをもらいました。 従来が演奏家仲間からの、あくまでも演奏家としての反応だけだったことを思うと本当に嬉しいことです。 座光寺君の言ってた「作曲は聴衆のために!」という言い分、やっと実感出来ました。

本当に作曲を続けていてよかった!

OP.62は、作曲を続ける勇気をぼくにくれた座光寺君のこと、これからの作曲のこと、全ての感慨を込めて、
『座光寺君の思い出のための三章』
として発表します。

「モチーフ操作など作品への不満は多々あるだろうし、また、勝手に 名前を使って申し訳ないけど、心を込めて書くから、許してくれよな、・・・・・座光寺君!」






※ 文中にて、私が、東京の市ヶ谷ルーテルホールで聴いて衝撃を受けた、私の作曲の恩師、故.座光寺公明氏作曲の 弦楽四重奏曲『亡き人のために』(正式名称は『Prelude for Strings, Op20』です。)の音楽について、この、MP3が 聴けるようにリンクいたしました。

彼の追悼ホームページが、2007年年初に、ロンドン在住の奥様の力で立ち上げられましたので、ここで、改めて、ご紹介 申し上げます。

日本では、ピアノを演奏される方が圧倒的に多いので、ともすれば、ピアノ曲のみに興味が集中してしまう傾向が多々ある ようです。が、和声学、対位法という作曲にあたって重要な手法を十分に活用でき、また、本来の音楽を楽しめる演奏形態は、 間違いなく、室内楽曲です。

残念ながら、管弦楽曲ではありません。

現に、大作曲家のドビュッシーも、ピアノ曲「映像」を書くはるか前の若かりし頃、弦楽四重奏曲を作曲していますし、 「ラプソディー・イン・ブルー」で有名なガーシュウィンも、弦楽四重奏曲を作曲しています。さらに、ピアノの詩人・ショパン も、最晩年にチェロソナタを作曲しています。

作曲家としてのキャパシティーというものは、室内楽曲を書けるかどうかで100%判断出来ると言っても、過言ではありません。

演奏家はともすれば、自分の演奏する楽器の関与する作品しか聴かない傾向があるので、そのような対応では、どうしても 音楽性において、演奏家として偏った状況に陥ることが多いことを、私の作曲の恩師であった、故.座光寺公明氏は、私に 教えてくれ、それは、ピアノを演奏する私にとってもかけがえのない財産になりました。

ピアノに親しんでいる皆様も、是非、故.座光寺公明氏が、若い頃作曲した、 弦楽四重奏曲『亡き人のために』(『Prelude for Strings, Op20』)に触れていただきたいと願い、このエッセイから リンクいたしました。

彼の残した数少ない傑作作品は、没後20年目の2007年年初に、ロンドン在住の奥様の力で立ち上げられた、下記ホームページにて 聴くことが出来ますので、ご来場されて、お聴き下さい。



故.座光寺公明氏ホームページ

In memory of Hiroaki Zakoji


故.座光寺公明氏作曲作品コーナー

故.座光寺公明氏作曲作品コーナー












Copyright (c) 2001-2016 Katsuhiko OkadaAll rights reserved


入口へ

inserted by FC2 system