『感覚的な経験について』
(1989.6.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報』1989年7月号に掲載)
フォーレの「レクイエム」に心底感動したのは、大学も卒業間近のこと、そのきっかけは1枚の風景写真のパネル
・・・・・、16歳の頃、交換学生で行ったアメリカのシアトルで買ってきたもので、西ドイツのどこかの山奥の渓流の
写真でした。
もちろん、当時、ぼくはロンとティボーが入って演奏したレコードで、既に、フォーレのピアノ四重奏No.2と出会っていた、
というよりも既にスコアを読んで暗譜してしまっていましたから、フォーレがどんな作曲家なのか理解はしていましたし、
もちろん「レクイエム」も知っていました。ただ、このカルテットについては、ハートて゜感動するというよりも、むしろ
大脳で感心するという割合の方が多かったようでしたし、「レクイエム」についても、この写真なかりせば、果たして心底
感動できたかどうかあやしいものなのです。
この時特に気に入ったフォーレの「レクイエム」のパッセージは、ルイ・フレモー指揮の廉価盤(古い方の録音)の
「サンクトゥス」の8小節、変ロ短調の響きから原調の変ホ長調に入って行くところ、ボーイソプラノとハープによって
かもし出される、まさに、清澄な水が流れる感じの響きでした。ともかく、この8小節がその写真にピッタリだと気づいた
ぼくは、1ヶ月くらいずっとこの写真を見ながら、この8小節ばかり聴いていました。こうして、このレコードの
「サンクトゥス」の部分だけが磨り減ってしまいダメになってしまいました。が、こういうことはぼくにとってはよく
あることなんです。
一番最初は、中学1年の頃でしたが、ラフマニノフのピアノコンチェルト2番 を、アシュケージとコンドラシンの
初盤を買ってきて聴いていた時のこと。第1楽章の再現部の、ホルンのソロによる
5小節の第二主題の懐かしい響き が、絶対にアールグレイの香り と合っていることに
気づいたぼくは、そこの響きとアールグレイにこだわって翌朝まで何回も聴き直して、耳と鼻と舌でその快感を
納得ゆくまで味わいつくしたことでした。ただ、アールグレイをアイスで飲み続けたので、お腹を
壊してしまいましたが・・・・・。また、うちの庭にあった沈丁花の匂い と、
ショパンのスケルツォ4番の再現部の3度のトリルの響き
の相性を発見した中学2年の時には、沈丁花の前までヘッドホーンのコードを伸ばしてずっと外で聴いていた
ので(3月でまだ寒かったのです。)、風邪をひいてしまい親にひどく叱られたことがありました。
・・・・・さらに、大学時代、下宿していた東京の中野の下宿で、台風23号
が近づいていた秋口、次第に風雨が強まる中で、ピアニストのサンソン=フランソワ
の演奏するラヴェルの「左手のためのピアノコンチェルト」のある種の脅迫心理を思わせるパッセージ
に痛く感動し、絶対に台風の近づいてくる気配の中で聴くべきだと思ったので、ウォークマンのイアホンを
耳に入れたまま、傘もささず、ずぶぬれになりながら、Tシャツとジーンズのまま、高円寺まで、
暴風雨の中を歩いて、触覚と聴覚で最高の感動を味わいました。で、後で、近所の銭湯でゆっくりと温まりながら、
久々の感動をかみ締めたりしました。・・・・・こんな経験を、書斎派のインテリゲンチャーの多い、クラシック
音楽レコード鑑賞家の友人に話したりすると、まず、理解してもらえなかったりしましたが・・・・・。
でも、ぼくにとって、心底感動する時、耳はそういうどこかの響きにこだわっているには違いないのですが、必ず耳以外
の感覚器官も同時に反応していて、その感動に加わりたがっています。これは、ちょうどピアノに向かってショパンを
弾くと、耳から音が入ってくるのと同時に、ピアノの鍵盤の触り心地が指から触覚的に伝わってくるのと同じですから、
楽器をやっていればこういうふうに五感の総体でもって音楽を感じる、という経験をされた人達も多いのじゃないかと
思っています。
が、実はこういう感覚的な経験は、音楽を続けてゆくにあたって大変に重要なことのように思うのです。つまり、
マラルメの言葉に「全ての書は読まれたり。肉は悲し。」とありますが、これは、感覚的領域の割合が多い音楽芸術に
は絶対にあてはまらないのじゃないか、ということです。いろんな音楽活動を通して、いろんな音楽家と知り合うことが
多いのですが、いつも、ぼくは、その人の感覚的な経験の持ち方に一番敏感で、また、そうしたもので音楽家として
のその人を評価しています。ぼくの関心事は、メカニックではなく、その人がどういう感覚的経験に基づいてその曲
を演奏したがっているか、ということなのです。なぜなら、ぼくは演奏に感心したいのじゃなく、
感動したいからです。
また、APA(日本アマチュア演奏家協会)で時々なされる、次から次へといろんな室内楽のスコアを音にしてみる
初見大会は、他の、幼少期からピアノをやってきた仲間と同様、ぼくは、「何が楽しいのか」全く理解出来ませんでした。
こういう音楽へのアプローチの仕方は、レコードマニアが誰も知らない曲を集めて聴くのと同様、感覚的欲求よりも
知的欲求を満たす楽しさがあるんだろうと思います。が、たぶん、ぼくも含めて、幼少期から音楽をやって来た人達に
とっては、ピアノを弾いたり、レコードを聴いたりする行為が、自分の中に知識欲が萌芽する前から始まっていたために、
理解出来ない楽しさなのじゃないかと思います。
このホームページ掲載のエッセイ「芸術家と音楽愛好家の違い」
( → ご参照できます。)
でぼくが言いたかったことは、つきつめれば、以上のような感覚的経験の量と質、そして、それへのこだわりの違いの
ことであって、バイエルとツェルニー、あるいは、ショパンの「別れの曲」のような簡単なエチュードと「木枯し」
のような難しいものが弾けるかどうか、というものの違いではないということです。そのようなもので、プロとアマ
の違い、本物と偽者を区別するほどナンセンスなことはありません。換言するなら、感覚的経験の貧弱なアーティストは、
自分が感覚的に音楽を体験していないのですから、人にそれを納得させ、感動させる演奏などは絶対に不可能だ、という
ことです。
さて、ぼくが模範としている感覚的経験の豊かな生き方は、辻邦生が
「モンマルトル日記」に次のように書いているものです。
「『語り手空間』として詩的に生きる、とは、『一般具体物のレヴェル』に出て、全てを『映像』とし、そのような
距離を保って生きることである。内部に入って一部をのみ見るというのではなく、外部に出て、その『映像』としての外形
をつかむのである。知的認識はしたがって、内部に入ることである故、全く詩とは関係ない。ジャコメッティーの言う
『イマージュ』が無限の距離となるとはこのことである。」
そして、最後に、ぼくが大学時代の一時期凝っていた、ニーチェ以降のドイツ文学の中で19歳当時出会った、
ヘルマン・へッセが「ガラス玉演戯」の中で述べている
『感覚至上主義』の名言をご紹介したいと思います。
「音楽はあらゆる世紀を通じてまず第一に感覚的なものや息の流出や拍子や色どりや摩擦や刺激を喜ぶことから成立
した。・・・・・確かに精神が主要なものである。・・・・・しかし、この外面的感覚的特徴を感覚的に強烈にとらえ
味わうのでなければ、時代と様式とをそれから理解することはできない。音楽をするのは手と指と口と肺とでもってする
のであって脳だけではない。なるほど譜は読めるが楽器は一つも完全に奏でることが出来ないというようなものは、ともに
音楽を語る資格がない。」
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