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『室内楽の演奏について』



岡田克彦


(1987.12.執筆、『ピアノと遊ぶ会会報』1988年12月号に掲載)



BGM;フォーレ作曲;「ピアノ四重奏 No.2」第2楽章


(ピアノ;岡田克彦、ヴァイオリン;竹内恵梨子、
ヴィオラ;納富継宣、チェロ;藤田裕)


〔1986.6.26. 原宿パウゼ「マ・ノン・トロッポの会」ライブ収録 〕






フォーレの室内楽がやりたい、というきっかけで始めた室内楽でしたが、ソロと違って人類と口をきかないとできない 室内楽においても、やっぱし、自分の一番好きなものを一生懸命にやることが一番大切なことだということを、まずは 申し上げたいと思います。

ぼくの場合、どうしても、曲の全体と自分が一緒でないと我慢できないので、そういう曲しかやりません。いつも 一緒に合わせている仲間も十分わかっているらしく、そういう曲しか、やろう、とは言わないようです。ですからもし、 「曲の片隅で弦楽器や管楽器に埋もれてひっそりとやらしていただければ結構です。」なんて言おうものなら、岡田さん ついに気でも狂ったのかしら、と思われることまちがいありません。とは言うものの、いわゆる伴奏らしい伴奏は絶対やる 気が起こりません。つまらないもの。最もやりがいのあるものは、大きな編成よりもデュオかトリオ、それも、ピアノが 半分かそれ以上責任のあるものか、あるいは、オケ版をピアノに直したようなコンチェルトの伴奏(これは、練習でオケ のスコアを見ていろんな楽器の音色を作る時に結構楽しめますし、アレンジがピアニスティックでない時に、ぼくが アレンジし直せます。・・・・・この点では、メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルトのオケ版のピアノアレンジは、 APA(日本アマチュア演奏家協会)中では、ぼくのがナンバーワンだとのもっぱらの噂で、いろいろ引っ張り回され ましたが、もとより、ぼくの作品番号つきの作品になどはもちろん入れていません、というのも、合奏相手の音程のとり方 でいつも変えますからスコアに落とすのが面倒くさいからなんですよね・・・・・・、また、もし、独奏者から、 「ピアノがうるさい。」などと言われようものなら、「何言ってんの。オーケストラの分厚さなんてこんなもんじゃないよ。」 と言い返すことができるからですが)、あるいはヴァイオリンの竹内さんと時々やってる、ジプシーヴァイオリンの、 ヨタリまくりの退廃的なリズムを楽しめる伴奏とか、ベリオ作曲の「バレーの情景」みたいな、完全にパーな作品の伴奏で、 伴奏しながら頭の中を空っぽにしてアドリブを入れて十分に楽しめるようなものに限られます。また、カルテット以上の ピアノと弦の室内楽でやりたいものは、音響力学の天才のフォーレの作品に限られます。が、管楽器の人には底抜けに 明るい人、ソリストとして完結している人が多いので、やってる時も楽しいし、練習後、一緒に居酒屋なんかでワイワイ 騒げるという、かなり属人的な理由で、必ず合わせています。

従って、ピアノの多様な表現力を必要としない、バロックの通奏低音のようなものは、例えば、J.S.バッハの 「ハーモールのフルートソナタ」のように内容のある高度な作品、 ヘンデルのヴァイオリンソナタの4番と6番のような 傑作をピアノで出来るようにアレンジしたもの、 イタリアバロックの美しい曲集、 なんかを除いてもともとやる気が しないうえに、

輪をかけて、テレマンやクヴァンツのト長調に代表される、色彩も何もない、秋葉原オノデンのただの蛍光灯の明るさ のような埋没できない長調の1楽章や、三連符の一つめと三つ目をブルースよろしくスウィングすることも許されずに、 メトロノームのように正確に、ツェルニーの毎日練習曲を毎日やるように果てしもなく刻み、歌いたいからではなく、 「終わりでっせ」と、退屈しかかった聴衆にとどめを刺す合図にすぎないワンパターンの終結のリタルダンド以外の変速を 一切やらない単調・・・・・いや、短調だった、・・・・・それも、モーツァルトのように、そこはかとなく疾走するでもなく、 ただ時間が無駄に過ぎていることだけを感じさせる短調・・・・・の終楽章のようなものを、もともと音量のないチェンバロ に合わせて箱庭のようなせせこましいダイナミスムの中で整えようとしている人たちは、変速がないという前提で合奏して いるので、合奏相手の発信する音に対する緊張よりも自分のそれほど正確でもない頭の中で「1,2,3,4・・・・・」 と数える声の方を大切に思っていることが多く、個性的演奏を嫌っているというよりも、もともと個性がないので楽譜通り にしかできないだけのことで、もう退屈で退屈で、・・・・・いやいや、そんな音楽に関すること以上に、自分のテンポ ルバート感覚を、メトロノーム化させることに無常の快感を覚えるような人たちには、受験勉強によって生徒達を型に はめている文部省教育委員会的に、暗かったり、歪んでる人が多いのだ。だからやってて楽しくないんです。・・・・・ ともかく、あ〜〜〜あ、疲れた〜〜〜、というケースが大半なのであります。

ですから、まずは自分のやりたい室内楽の曲を決めてからやった方がいい。ピアニストの場合、具体的にやりたい曲 がないのなら、室内楽をやる必要は全くありません。室内楽をやることによって、自分のピアノの音を合奏相手が客観的に 聴いてくれるのでとても勉強になる、というようなことを言う人がよくいますが、これはおかしい、と思うのです。 じゃあ、その人はソロならば、自分のピアノの音が客観的にどう響いているのかを耳にフィードバックしないで (つまり、聴衆を意識しないで)演奏しているのだろうかと、逆に聞きたいくらいです。なぜなら、客観的な合奏相手の耳、 というものが正しくないことだってあるのですから。自分の音を自分でコントロールできないなどというのは、 もともとダメで、室内楽をやることによって改善されるようなことじゃありません。よく、音量のない、あるいは、 音程が悪いためにピアノと同じ音程の音を出して相乗効果を出すことのできない弦楽器の人がいて、自分の欠点を棚に上げて、 ピアノに極端な弱音を強要したり、ひどいのになると、純正調だなんだかんだ、へ理屈をこねるような人もいるのです。 そういう人たちと合奏するのは、あなたにとって何のメリットもなく、時間の無駄です。従って、常々、 ソロにおいても、自分の音の響きを自分の耳にフィードバックするような意識的な演奏を心掛けるべきでしょう。これは、 ソロ自体にとってもとても大切なことですし、また、この習慣が身についていれば、室内楽をやるからといって、 特別なものをやる時の萎縮した態度ではなく、いつもどおり、のびのびとできるはずですから。そして、その方が必ず いい演奏の結果につながります。

もう一つ、室内楽について言いたいことは、合奏は音の対話を楽しむものだから、合奏練習の時においても、言葉は 一切いらない、ということ。合奏する場合、そのメンバーに必要なのは、知識や技量ではありません。何よりも必要な のは感受性。相手の出した音に相手の出したがっているコメント(これは音楽ですから必ずしも言葉にはなりません。) を感じとる感受性です。知識や技量なんて、誰でも時間をかけて学習すれば身につくこと。合奏の練習をすすめな がらメンバー個々人がやってゆけば十分間に合います。でも、感受性の乏しい人と合奏すると、とても疲れます。 練習してて、この次のパッセージ、例えばヴィオラの人に歌ってほしいな、という時、その前のフレーズにもったい ぶったテンポルバートをかけて終結させ、歌わざるを得ないようにしむけても、反応してくれない人。 ・・・・・あ〜あ、どうしよう






この場合考えられるケースは2つあります。一つは、本当に全く感受性のない合奏相手だ、ということ。もう一つは、 ぼくのルバートのかけ方が、その合奏相手の感性と一致していないため、何も通じない、ということ。まあ、いずれにせよ、 こういう相手と合奏しても、妥協の産物しかできません。つまり、どんなにうまくいったところで、せいぜい、 楽譜に忠実なだけの二流のプロのレコードのコピーが出来上がるのが関の山だ、ということです。こういう人と 合奏する場合、言葉で打ち合わせするしか方法はありませんから、室内楽ならではのライブの楽しさや即興的な遊びなどは、 絶対に実現不可能なのです。本番でついのりすぎちゃって事前に言葉で打ち合わせた以外のことなどやってごらんなさい。 このような合奏相手は落ちるに決まっていますから、ぼくは、どんなにがんばったところで、楽譜に対して、100%の 演奏しか、この場合はできない。でも、70%しかできない時があっても、たまに燃えた時は120%の演奏を やっちゃえる人、そういう人の方が演奏家としてぼくは好きだし、またそういう人こそが演奏家じゃないか、と思います。 なぜって、演奏は本来デジタルなものだからです。もし、そういう一回性のもつスリルが嫌いで、いつも絶対的なもの しか音楽に求められないのなら、演奏なんかやめて、作曲をやった方がいい、とぼくは思います。

が、まあそれにしても、妥協の好きな(つまり、言葉で打ち合わせしてやるしか能のない)室内楽愛好家の何と多いことか。 「この曲は4分音符=80で始めて、中間部は4分音符=60にしよう。」「ここは、ヴァイオリンがテーマだからあとの人は 音量抑えて、ただ、バスラインのチェロは少し音量を出して。」・・・・・あ〜あ、下らない。そんなもの、メンバー がお互い全体像を聴き合いながら何回も合わせれば、言葉なんか使わずに、出来てしまわなくちゃいけないこと。また、 そうやって音の中での経験で、耳でつかんだものでなくちゃ、本番では絶対うまくいかないと思う。

例えば、ヴァイオリニストが打ち合わせで4分音符=80、と言っていても、本番でピアニストは4分音符=100で 始めちゃうかもしれない。そして、そのピアニストのテンポを、本番でチェリストが4分音符=60くらいに感じたら、 このピアノトリオはどうなるんだろうか? こうしたテンポと同様、音量も相対的なものです。ですから、こうした 相対的な相関関係を練習のプロセスで体験していれば怖くないけれども、楽屋での言葉による打ち合わせの通りに 始まらなかったら全部壊れてしまうようなのは合奏じゃないよ。それに、そんな打ち合わせ通りのものなんて、 まるで、レコードかCDみたい。ライブの楽しさ(即興性)が全然なくて、楽器をやっていない純然たる聴衆には そっぽ向かれるよ。
言葉による打ち合わせがナンセンスだ、という理由の第一はこの点です。

言葉による打ち合わせがナンセンスな、第二の理由は、 時間をかけてやった方がいいということ。アマチュアならば、出来る限り納得がゆくまでその曲をやれる、という 特権を最大限生かすべきです。時間の節約のため、言葉を使って付け焼刃の合わせでやっちゃうような空しい行為を、 ソリストになれなかった二流のプロが、よく、仕事としてやむなくやっているのにお目にかかりますが、我々のように 本物を目指している音楽家は、プロであれアマであれ、このような二流の人達を手本にする必要は全くありません。

言葉による打ち合わせがナンセンスな、第三の理由は、言葉は使い方に よって恐ろしい武器になる、ということです。言葉でまとめているグループには、必ず一人リーダー格の人がいて、他の 仲間よりも知識は豊富に持っていて、合奏する前に、この曲はいつ頃書かれて、どういう曲で、CDは5つ出てて、あそこ のカルテットのがよくて、・・・・・と、解説をなさったりする。で、メンバーにあまり知識のない人がいて、 「へぇ〜、なるほど、詳しいね。」などと言うと、もう有頂天になってしまって、合奏してても、そこをどうしろだの、 なんだかんだうるさい。何のことはない、どっかのCDのコピーを目指しているだけなのです。ぼくはピアノ五重奏などを 頼まれてピアノを弾きに行ったりした時に、こういう場面に出食わすと、あとの隷属しているメンバーがかわいそうで なりません。人間誰しも自己顕示欲があって、ぼくはこんなに詳しいんだぞ、とか、私はこんなに弾けるのよ、とか、 言いたい気持ちを押さえられない時があるのは仕方ありません。しかし、こうしたものをぶつける相手を間違えている のじゃないか、とぼくは思うのです。知識を誇りたいのなら、こういう会報に投稿するとか、いーーーっぱいいる、 レコード鑑賞家とおしゃべりしたらいい。(実際、彼らの方が詳しいことが多い。)また、メカニックを見せびらかしたい のなら、ピアニストはスカルボを、ヴァイオリニストは悪魔のトリルを、チェリストはポッパーの諸作品をやればいいの じゃないか?






あ〜あ、どうしよう。言葉を使わざるを得ない時、ぼくは一番悩みます。結構大変なのですよ。 「ヴィオラの人、そこのところもっと色っぽく」っていうのは最悪。「もっと歌って下さい。」でさえ、具体的じゃない のです。これでは、何も言ったことにはならない。だから、この場合ならば、「フレージングの表現の仕方は、一般的には、 スラーの途切れ目に向かってデミネンドするか、リタルダンドをかけて、スラーが途切れる瞬間に元に戻すかなんですけど、 造形のために、ここのヴィオラのテーマ、その点にこだわってみませんか。」という言い方がよいのですが、 大変に疲れることなんですよ、これだけの文章を考えるのは。でも、その人の合奏に関する要望が言葉で表現されるのを 聞けば、大体その人の音楽的水準はわかります。つまり、音楽の中で言葉で説明しうる部分がどこまでであるかを、 優れた音楽家はわきまえているものだからです。

さて、こうして言葉がなくなると、口の緊張と言語中枢の緊張を全て、耳と目に持ってゆけるのですが、さらに、 暗譜でやると、楽譜を見るという視覚中枢の緊張も耳に持ってゆけるばかりか、あのグランドピアノの邪魔な譜面台をどけると、 ピアノの音はもっとずっとダイレクトに自分の耳にフィードバックできるし、客席の人や共演者の顔が見えてくる。 で、楽譜なんて動かないものより、音楽によって揺れ動く人の顔の表情の方がずっと芸術的なので、ぼくは、耳だけを 頼りに暗譜で、目はキョロキョロしながら、室内楽をやるのが大好きなのです。

暗譜で室内楽なんかやってて、相手が落ちたらどうするの? もちろんのこと、その時はぼくも一緒に落ちるしかないですね。 暗譜でやるほどの仲間とは、2回や3回の心中は覚悟の上です。・・・・・基本的に、じっくりとこだわったりするのは、 ぼくの場合、作曲に限っていて、ライブの命は即興性だと思っていますから・・・・・。そして、落ちたりよくなかったり した時は、仲間と一緒にすぐに忘れましょう。落ちることを恐れて、楽譜を置いて老生した手堅い演奏するよりも、落ちる かもしれないというスリル、予想のつかない修羅場の方が演奏にとっては重要です。
こういうギリギリの状況で仲間とお互いの音だけを聴き合いながら遊んでいる時の緊張感と、友情を超えた一体感
・・・・・まさに、合奏の本当の醍醐味は、ちゃんとした聴衆の前で、且、暗譜でやらなくちゃ味わえないものですよ。

自明のことですが、暗譜による室内楽の合奏は、妥協するような段階の合奏のやり方では不可能です。だから、 室内楽は下らない、合奏なんて妥協の産物だ、と思っているあなた、・・・・・何かやりたい、気に入った室内楽の曲が あったら、ひとつ暗譜でやってみてからにして下さい。それでも気に入らないのなら仕方のないことだけれども、 仮にそうなったとしても、

「あなたとなら暗譜で室内楽をやってもいい。」という、ソリストの親友を得られることは、そんなに悪くないと 思うのですよ!








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