『ディヌ・リパッティーのこと・・・・・J.S.バッハ-ヘス編曲「主よ人の望みの喜びよ」を聴いて』
『ディヌ・リパッティーのこと
・・・・・J.S.バッハ-ヘス編曲
「主よ人の望みの喜びよ」を聴いて』
(1979.8.26.リパッティーの演奏による上記レコードを聴いた夜に、日記に執筆、2001.11.13.加筆)
BGM;ショパン;「ワルツ OP. 64-1 (小犬のワルツ)」(エンドレス)
ピアノ : ディヌ・リパッティー(1950年収録)
〔リンク先、パブリックドメイン・クラシック提供MP3〕
リパッティーの弾いた、J.S.バッハのコラール前奏曲「主よ人の望みの喜びよ」(ヘス編)の余韻が感動として残る。
心の中でうーーーん、とうなりつづけているような感じ。まさに名演である。これ以上うまく弾ける人はいないだろうと
思う。
あの例の音型が背景で静かに波うちながら、旋律があらわれてくるのだが、これはテクニック的に非常にむずかしい部分
である。もちろん、ただメカニカルにこなすだけなら、どのピアニストにも出来るだろう。しかし、リパッティーの場合、
旋律をくっきりと出すために必要な物理的な動きが、完全に、精神的なエモーショナルな欲求を表出するために奉仕している
のである。だから、物理的に強く弾いているなどとは全然感じられない。くっきりと内声の旋律が出ているから、強く弾いて
いるにはちがいないのだが、あまりに精神的な欲求が浮き出てくるため、それに聴いている者もひきこまれてしまう。
もはや、いかなる雑念のはいりこむ余地もない至上の芸術としての音楽だけが存在している。美の極致に達している。
いや、美しいなどという言葉では表わせない。リパッティーの「コラール前奏曲」は『美しい』などと形容することが出来る
ほど軽薄なものではない。「強さ」、それも物理的でなく精神的な「強さ」がある。このリパッティーの「強さ」は何なん
だろう。・・・・・短絡的かもしれないが、トーマス・マンの言う「弱さのヒロイズム」と同質のもののように感じられて
ならない。
ところで、この演奏は1950年9月11日のもの。死の2ヶ月ばかり前のものだ。この、白血病で体の衰弱しきった時に、
このような極度の緊張感に満ちたJ.S.バッハのコラール前奏曲「主よ人の望みの喜びよ」をライブで弾けるなんて、
本当におそろしい。
「偉大だ」と思う。でも、ぼくはただ「偉大だ」なんて単純な表現は、あまり使いたくない。
だって、文部省の音楽教科書には、ベートーヴェンは「偉大だ」と書いていたが、どこが「偉大」なのかさっぱり
わからない。ベートーヴェンがいかに才能の欠落した作曲家であったかについては、いつか、別途、エッセイを書く
つもりだ。
が、たぶん、ゲーテと結託していたベートーヴェンという立身出世型の晩年に向かって成長し続けるしか能のない凡人は、
身の程知らずにも、自分で私は「偉大だ」と周囲に言って、吹聴していたのかもしれない。
そして、不幸なことに、明治維新の時、西欧音楽がドイツから輸入されたため、ベートーヴェンが神様のように思われて、
彼の残した「音楽は哲学だ」というバカげた言い分が、音楽辞典の冒頭にも掲載されるに至り、「クラシック音楽」は、
特権階級のお高い音楽だというものが、日本では定着してしまった。21世紀を迎えて、こうした悪い習慣は、
ノンジャンルで音楽を楽しもうとしている若い人達のために、なんとか打破されなくてはならないと私は思っている。
しかし、このリパッティーの演奏した、J.S.バッハ作曲-ヘス編曲のコラール前奏曲「主よ人の望みの喜びよ」については、
「ただ、リパッティーは偉大だ」 と言えるだけで、それ以外の言葉を口にのぼせてはならないように思う。
リパッティーがいつ、死んだか、など関係のないことだ。
リパッティーは完全に時間を超越した、真の芸術家だったのである。
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