「『ボローは着〜てても、心は錦』なんて水前寺清子の演歌の歌詞なんざ、さしずめベートーヴェンの
ピアノソナタを絶賛しているようなもんだね。日本では、こんな風に外見のよくないものが一つの美徳になっていたりするから、
ベートーヴェンがウケるんだね。」
とぼくは思わず言ってしまいました。ハンマークラヴィア・ソナタ
が、あの下手くそなケンプの演奏のレコードで
かかっていたからです。・・・・・と、ぼくのななめ向かいに座っていた、ベートーヴェンを海よりも深く探求なさっていた
レコード鑑賞家の大家の彼は、この人どんな山奥から出ていらっしゃったのかしら、と思われるほどおそろしくダサイ黒縁の
メガネの奥から、
ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏のような陰険な目でジロッとぼくをにらみつけ、
「君のようなのにはケンプの精神性なんて理解出来まい。
クラシック音楽は感じているだけじゃだめだ。もっと我慢して聴き込んでわからなくちゃ
いけない。まあ、君にもいつかはわかるだろう。今はまだ、ショパンや
チャイコフスキーあたりの好きな初心者だからしかたないけど。」などと、
エ〜ラそうに、のたまわれたのでありました。[オイオイオイ、そんなことぼくに向かって言っていいの?(笑)]
早稲田大学大隈講堂の裏にある、
「早稲田大学音楽同攻会」というレコード鑑賞会の狭い部室での一コマ。
彼は、4年生のベートーヴェングループのリーダー、ぼくは、まだ入学したての1年生でした。この言葉にぼくは、
ムカーーーッと来ましたが、反論することは出来ない。なにせ当時のぼくは、そんなに音楽知識面では詳しくなかったし、
それに比べて彼はともかくすべてのクラシック音楽におそろしく詳しい人でしたから。そしてレコード鑑賞会というところは、
音楽を学習するものだなんて思い込んでいる輩が多く、
感性や好き嫌いではなく知識量で勝負するところ
なのですから。まあ、この発言からして、彼の感性がおそろしく歪んでいるのは明白でした。が、案の定、彼の回りにいた、
彼と同じくらい音楽的に恵まれない人生を歩んできたと思われる、取り巻きの連中は、
ニタ〜ッと、自民党的なうす笑い
を浮かべながら
「新入生のくせに生意気なこと言うからだよ。」と、まるで彼の言うことが正しいような顔をしている。
ぼくは、ガゼン、頭に来たね。
そのころ、ぼくに出来たことといったら、わずかに、彼が
ベートーヴェンの「第九シンフォニー」の終楽章の通奏低音を
モゾー紙に写して前にはりつけて解説している時、その
写譜上のミスを数箇所指摘して、「そこは音が違ってますよ。」
「ああ、こっちも臨時記号がない。」などとチャカすか、また、
モーツァルトのハ長調のピアノ協奏曲が変ニ長調で
聴こえてきたので、「このオーディオ回転がおかしいんじゃない。みんな気分悪くないの。」と文句を言うぐらいのこと
でした。
が、こういう反発の仕方って、演奏経験もなく絶対音感もない彼等なんかにとっては一番
ショックなんですね。あとでわかりましたけど・・・・・。
ともかくレコード鑑賞会というところは、実に下らないところです。
絶対音感もないのに、音楽評論家の文章は読め、
視覚的にミスタッチくらいは聴くのではなく、見える、という程度の、教養の香り高い
ガレキの集まりだし、その中でも、
特に、ブルックナーやマーラーあたりにうつつ
を抜かしているようなのは、よほど暇を持て余した、インスピレーションの沸かない、忍耐力しかない、退屈な連中
です。それにしても、この程度の耳の悪いやつらに、ベートーヴェンに比べてチャイコフスキーが
けなされるのは実に不愉快なことだ。
第一、ベートーヴェンにチャイコフスキーの「弦楽セレナード」のような美しい
メロディーが書けるわけがない。逆に、ショパンやぼくのように耳のいい人間だと、
あの低域の音域の三度の詰まったおぞましいベートーヴェンのピアノソナタの響きにはトリハダが立つ。
いやいや、それ以前に、ぼくは、ベートーヴェンの大好きだった
「根性、努力、勤勉、実直、忍耐、野心」
といったものを、前面に押し出す態度が大嫌いなんだ。
音楽にとって絶対に必要なものは、そんなものじゃなく、
「才能、集中、感性、決断、愛情」
だ、とぼくは思う。
ぼくは、来年早々30歳になってしまうんだよね。エライことだよ。でも、
ぼくは変わらなく生きて
いきたいという証として、このあたりで、
日本のクラシック音楽の世界でぼくの気に
入らないものを、徹底的にやっつけてみたいと思います。
次に気に入らないのは、
吉祥寺のクラシック喫茶「バロック」のマスターN氏。
N氏「まともな音楽はシューベルトまでだ。」
ぼく「あなたのような音感のない人にはドビュッシーは感じられないでしょうな。」
N氏「フォーレもつまらん。あの室内楽はダラダラとケジメのないソナタだ。」
ぼく「仕方ありませんね。あの転調についてゆけない、のろまな耳にはケジメなく聴こえるでしょうから。」
(N氏、カザルス演奏のSP盤をかけながら)
N氏「このカザルスの『白鳥』はいい。」
ぼく「演奏以前の問題として、変ホ長調に移調して演奏しているのは気にいらない。この曲は幼い頃を
思い起こすようなト長調的発想の曲なのだから、それをこんなロマンティックなフラット3つの調性にしてやるなんて、
どんな理由があったにせよ、ずい分、トンマなことをしたもんですね。」
N氏「そんなことは、音楽の本質とは関係ない。君のように表面しか見ていないと、
本当の音楽の中身は伝わって来ない。」
ぼく「表面すら正しく見えない人に、どうして中身まで見えるのでしょう。」
(N氏、分が悪いので話題をそらして)
N氏「ところでホロヴッツの演奏は二枚舌の下らないものだね。」
ぼく「あのホロヴィッツの凄烈な音色のどこがいけないのでしょう。」
N氏「音色なんかどうでもいい。問題は精神性だ。ホロヴッツの演奏には精神性が感じられない。」
ぼく(思わず笑って)「精神性って何ですか?」
N氏「例えば、シュナーベルのベートーヴェンのソナタの演奏での間の取り方のようなものに現れている。」
ぼく「あれは和音の平行移動のメカニックがないために、間があいてしまっているだけです。
精神性のある演奏って、下手な演奏のことですか。」
N氏「何とけしからんことを言うやつだ。シュナーベルやケンプの精神性がわからないのか。」
ぼく「音楽ってわかるものじゃなく、感じるものじゃないですか。それに、シュナーベルとケンプなんて、
ドイツピアノ界の下手な双璧だ、あの時代、ラフマニノフだのホフマンだの、もっといいピアニストは
いっぱいいましたよ。」
N氏(怒りを押さえながら)「君はまだ若い。でも、何十年たってもそんなことじゃ、
この私のレヴェルにまでは到達出来ないだろうな。」
ぼく「『石の上にも三年』なんて芸術においては何の意味もないことです。芸術上の覚醒はある一瞬に
訪れるのです。それを捕まえられるかどうかです。それにしても、さっきのサン=サーンスの『白鳥』
が変ホ長調なのかト長調なのか聴き分けられないあなたのレヴェルってどの程度のものなんでしょう。」
というような会話の末、ぼくは6年前、この店に出入り禁止となりました。馬の耳に念仏とは思いましたが、
気のすむまで言いたいことはぜんぶ言ってきました。皆様もよかったら行ってみて下さい。
SP盤の音響はなかなかのものでしたよ。ただし、置いてあるレコードときたら、中世、
ルネッサンスからJ.S.バッハまでがほとんどで、ドボルジャックの「新世界」がたった一枚だけ
浮いた感じで置いてあります。が、これをリクエストしてはいけません。これは、これをリクエスト
した客を「初心者だ」とバカにして追い出すために置いてあるのですから・・・・・。
次は、
エレクトーンの先生。
いやですね。かわいこブッてたりして、でも一ぱしの芸術家のつもりなんですよ。
エレクトーンなんざ、楽器ではなく、おもちゃですよ、おもちゃ。シンセサイザーのような音色への欲求も
何もなく、企業の利潤追求の道具として出てきたのですから。第一、あれは、
ヤマハの商品名で、
カワイの出しているのはドリマトーンっていう名前だそうですし、分散和音がインプットされていて、
根音のキーを押さえるだけでコードに基づく伴奏型を出せることからも明らかなごとく、
気楽に音を出すため
のおもちゃにすぎないのです。その証拠に、はるか昔、ピアノが出現した時には多くの作曲家がトリコに
なったのに比べてエレクトーンはどうでしょう。
モーツァルトのピアノ協奏曲に匹敵するような
エレクトーンコンチェルトなんて出現しそうもありませんよ。はっきり言って、このようなおもちゃを教えている
ようなのに、ろくな耳を持った人はいない、とぼくは断言出来ます。が、訳のわからないグレード制のようなもの
を作っているヤマハ音楽教室あたりでは、
エレクトーンの先生の方がピアノの先生よりもエライのです。
それはカセギがいいからです。ピアノとちがってエレクトーンは上手くなるにつれて、何回も、より高価なものに
買い替えなくちゃいけない。だから、エレクトーン教室の方が、ヤマハにとっては笑いが止まらないのです。
ぼくが、大学卒業して、住友信託銀行に入社した頃は知らなかったんだけど、ヤマハって住友グループ、
つまり、メインバンクは住友銀行なんですね。でも、松下電器みたく優秀じゃないから住友の
正規グループ21社には入れてもらえないんだけど、
ともかく、ヤマハは、住友グループの恥。あんな会社に
お金貸してたら、近い将来、住友銀行も良識を疑われることになるでしょうね。
音楽評論家をひとくくりにしてけなすことは出来ません。
遠山一行のようなパーもいるけど、そうでないまともな人もいますから。
でも、どんなまともなことを書いていても、音楽評論しかしないのだとしたら下らない輩です。
本当に音楽が好きならどうして創造しようとしないのでしょう。
もちろん、聴くだけの人達を否定しているのではありません。しかし、
音楽上の感動なんて、
もともと言葉になんか代替出来るものじゃない。音楽は音楽のまま味わい、
どうしてもその感動を言葉にして吐露したくなったなら、日記帳のすみっこにでも
書いておけばよい程度のものです。それを、さも、作曲や演奏に匹敵する芸術活動の
ように思って行ない、不特定多数の楽譜すら読めないかもしれない読者に読ませようとするのだから。そして、
日本の音楽愛好家の大多数が作曲や演奏はしないけど、文字は読めることにつけこんで、ある種の影響力を
もっているようなのもいるのだから、メチャメチャだ。音楽芸術は、この音楽評論家という寄生虫によって
曲解だらけにされてしまっている。
昔、
ホエシックというバカな音楽評論家が、ショパンについてお涙頂戴式のまことしやかな評論を書いて多くの
曲解が生まれたことがある。
それに対するショパンの反論。
「世の評論家達は、私のあの作品やこの作品に恋愛や失望がどれほど責任をもっているかを学問的に分析して、
丁寧に解説してくれることだろう。そこで私が本当のことを言ったところで、私はこの曲を雨が降っていたので書いた、
どこへも出かけられずに気が狂わんばかりに寂しかったので書いた、と言ったところで彼らはそれだけだった
とは納得しないだろう。・・・・・ベートーヴェンが葬送行進曲を書いたのはお腹が痛かったからかもしれない。
評論家は、作曲家が夢にも思わなかった偉大なことを発見しようと努力している。」
・・・・・フレデリック・フランソワ・ショパン
作曲家のショパンが曲ではなく、こんな反論を書かざるを得なかったとは、実におかしなことだ。
作曲家と演奏者と聴衆さえいれば、音楽評論家なんていない方がいいと思いませんか?
エッシェンバッハ。
いったいこのやる気のない男は何なんでしょう。
もう、こんな男がドイツピアノ界の後継者だ何て思っている人もいないでしょうが、
デムスのようなウィーンのクズ、記憶にとどめる必要もない
スコダ、そのほかシベリウスから
年金をもらっている
館野泉、のようなのが、今だにピアノをやめないでいるのは、
あっぱれ世間の見せ物。
アルゲリッチ、ピーター=ゼルキン、ルプーなど有能なピアニストはいっぱいいる
ことですし、
音楽のためにも心おきなく、さっさとピアニストを廃業して欲しいものです。
ついでながら、
日本の、弦楽四重奏曲専門の弦楽器の皆様に申し上げたいこといくつか。
『ピアニシモはフォルティシモの出せない人には出せません。』
『バランスのよさだけでは、音楽は箱庭になってしまいますね。』
『純正調と平均律について、ピアノと合わせる時に合わせなくてはならないのは弦楽器ですよ。』
『誠実さ』は大切ですが、その限界を知った上で若干のハッタリがないと、演奏の結果は生真面目なだけで、
アミューズメントが欠落しますので、ステージで聴衆を楽しませることは出来ませんし、チェーホフも
次のように言ってます。
「誠実さ、誠実さなんてのはバカな人間がとる態度のことさ。なぜなら、利口な人間はそれ以外の態度もとること
も出来るけど、バカな人間はただ、誠実な態度しかとれないからね。」・・・・・チェーホフ
この原稿を書いているのは11月の終わり。もうすぐ年末。
あのおそろしい第九の季節がやってきます。
どうして、いつもいつも第九のような駄作ばっかりやるのでしょう。日本の文化水準の低さを世界に証明して
いるようなもんだぜ。
日本にも伝統的な芸術はいっぱいあるのだし、何もボンにこだわることはないのだよ。
それに、
どうしてもドイツ音楽じゃいけないにしても、もっとましな曲はいっぱいあるじゃないか。
ぼくなんかは、毎年クリスマスイブには
ショパンの遺作のエチュード3番をゆっくりと弾きます。このショパンの小品は
クリスマスには最も相応しい小品です。そして、年末には、絶対に、
J.S.バッハの
「マタイ受難曲」を聴いて、ショパンの
「バルカローレOP.60」を
弾くことにしています。
これを聴いてこれを弾かないことには全ては終わらないのです。でも、J.S.バッハの「マタイ受難曲」は
本当にすごい曲です。あの長い曲がいつも20分くらいにしか感じられないのですから。
そして、お正月には、
モーツァルトの「ジュビター」を絶対にブルーノ=ヴァルター
の指揮で聴いてから、
チャイコフスキーの「トロイカ」を弾くことにしています。
どうして「トロイカ」かって? シラフじゃないからですよ(笑)。あの曲はとても簡単なので、
シラフで弾くと後半の右手に装飾が出てくるところで必ずアチェランドしてしまってだめなのです。
その点、お正月、黒豆やおとそをいただいた後のゆったりした気分の時には、インテンポでやれて
ちょうどよいのです。それに、メロディーが右手と左手で形成されるユニゾンになっているので、
アルコールでモーローとなった意識にもハッキリと、さわやか〜に響いてくるのですよ。
とってもいい曲ですよ、これは。是非、皆様もお試し下さい。
では、皆様、よいお年をお迎え下さい。
ぼくは、来年早々30歳になっても、気分はガキのまま、
書きたい放題、書いてゆくつもり!
どうか来年もヨロシク!
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