『ホロヴィッツの思い出』・・・・・ウラジミール・ホロヴィッツ追悼・・・・・
『ホロヴィッツの思い出』
・・・・・ウラジミール・ホロヴィッツ追悼・・・・・
(1990.2.執筆、『ピアノと遊ぶ会』会報1990年3月号に掲載)
BGM;ラフマニノフ「プレリュードOP.32-5 ト長調」(エンドレス)
(リンク先・山崎真氏制作MIDI)
「岡田さん、今度出た『ホロヴィッツ・アットホーム』のCD、今日買うて聴きました。この中の、リストの『ウィーンの夜会』
ええでっせえ。聴いてみて下さい。」
大阪生まれの大阪育ちのアマチュアピアニストの瀧田雅之君の登場でした。夜の11時に宝塚のぼくの独身寮
(住友信託銀行松泉寮)の部屋へ、ホロヴィッツのCDを持って出現したのです。
久しぶりに聴く、ホロヴィッツの演奏でした。でも、本当に素晴らしかったのです。ウィーンの夜会のヴァルス・カプリースの
第6番には感動しました。ああ、これが音楽なんだ、やっぱりホロヴィッツはいいな。このサービス精神、ピアノがないと
生きて行けないようなハングリー精神からくる真のプロ意識。イチかバチかの勝負にかける潔さ、そして何よりも溢れ出て
くる歌心。
その夜遅くまで、ぼくは瀧田君に貸してもらったCDを何回も聴いて寝ました。
そして、その夜、ホロヴィッツが亡くなったことを翌朝のニュースで知りました。
「ウィーンの夜会」という曲自体、昔の繁栄の名残り、太宰治の『斜陽』のイメージ(同じような意識は、ラヴェルの
『ラ・ヴァルス』の根底にも流れています)なんです。そして、もう過ぎ去った古きよき時代の最後のピアニストだった
ホロヴィッツが死ぬ直前にぼくが聴いた最後のホロヴィッツの演奏が、この「ウィーンの夜会」だったことに何とも言えない
感慨を持ちました。
「文化って、弱くて、もろくて、負けるものなんです。でもそれでいいのじゃないかしら。」
という太宰治の言葉が頭の中を過りました。
もちろん生きてたって仕方ないでしょう。もう、体もガタが来て、演奏も往年のラフマニノフのピアノコンチェルトの
3番のようなものは出来なかっただろうし・・・・・。でも、ぼくにとってホロヴィッツは一番大切な音楽家(ピアニストと
してではなく)の一人でした。ですから、今さらホロヴィッツのタッチがどうの何のといった具体論を説明しようと思えば
何百枚もの原稿が書けると思いますが、大事なことは、音楽家としての生き方であって、こんなものは、言葉にしても
空しい。
ただ、一つだけ、プラスキンの書いたホロヴィッツの伝記(死ぬ前に伝記の書かれた人も珍しいでしょうけど)からの
一節だけを引用したい。ホロヴィッツが故国を捨てて出たヨーロッパで初めて大々的に認められた場所はハンブルグでした。
その時の話です。ホロヴィッツのピアノのルーツは、こういう時代(第一次世界大戦と第二次世界大戦の狭間)の、
こういうイチかバチかの状況の中で認められ育まれたものだということを、もし、皆さんの中で知らない人がいたならば
知って欲しいから。
(以下は、プラスキン著「ホロヴィッツ」からの引用です。)
ホロヴィッツとメロヴィッチ(当時のホロヴィッツのマネージャー)はハンブルグ市の名高い動物園を散策して、静かな
一日をすごした。雪になりはじめ、ふたりは冷えきった体をひきずって、ホテルへと向かった。ロビーに入ると土地の興行師が
待ち構えていた。ふたりをみつけるや、ホロヴィッツにはわからないほどの早口のドイツ語で、彼が何かまくしたて、
はげしい身振りでしきりに何やらせきたてるのである。話を聞くうち、メロヴィッチの顔は興奮に紅潮しはじめた。
そのマネージャー朝からふたりを捜していたらしい。ハンブルグ・フィルハーモニックとの協演を同夜に予定していた
女流ピアニストが総練習中に失神し演奏不可能になったので、ホロヴィッツに代演を依頼するためだった。
「一世一代のチャンスだよ! どう思う?」とメロヴィッチは叫んだ。疲れと冷えに加えて、予想だにしなかった申し出に、
度肝を抜かれたホロヴィッツは、たじろいだ。「演奏会は何時ですか?」と心配気に彼は尋ねた。興行師は、演奏会は
もうすぐに始まるはずで、休憩直後に弾いてもらうには、45分以内に来てもらわなければ、という。「よし、じゃあ、
チャイコフスキーのコンチェルトだ。オーケストラには総譜とパート譜はあるでしょうね。ミルクを一杯たのむ。」と
彼はてきぱきと言った。ひげを剃り、着替えをすまし、彼は心の中で楽譜を復習したが、二週間前のベルリン交響楽団との
協演以来、この曲の音譜はひとつたりとも弾いていないことは、わかりすぎるほどわかっていた。
ホロヴィッツとメロヴィッチは、息を切らせて演奏会場にかけつけた。時あたかも、前半最後の曲、ベートーヴェンの
第六交響曲(田園)の最後の部分を、指揮者オイゲン・パプストがしめくくっているところだった。パプストは、いったい、
続きの後半があるのやら、あったとしても何を振るのやらすらも知らなかった。しかし、オーケストラの楽譜係は、すでに
チャイコフスキーの協奏曲の楽譜を用意するようにとの指示を受けていた。そして、休憩に楽屋に戻ったパプストは、
ウラディミール・ホロヴィッツとかいう男が同夜の独奏者であると知らされた。聞いたことすらない名なので、パプストは、
ただいらいらした様子でうなずいただけで、挨拶もせず、ホロヴィッツを冷たい目で見やった。そして、楽譜を広げ、
ふたりに共通のフランス語で、指示を与えはじめた。彼は言った。「なあ、君、ここんところ、こう振るよ。これがあたまの
テンポだ。ここはこうだ。ここではちょっとリタルダンドだ。」「ウィ、ムッシュ、ウィ、ムッシュ」ホロヴィッツは調子に
合わせて返事をし最敬礼をした。舞台へ出る直前、パプストは、まるで子供にでも言うように、最後の言葉をつけ加えた。
「僕の棒をよくみてるのだな、君、そうすりゃ、大して、ひどいこともおこるまい。」
オーケストラの短い導入がすんで、ホロヴィッツが強烈な和音を弾きはじめるやパプストは、くるりと振りむき、
鍵盤を前にしたやせた蒼白い男を、あわてふためいて、みつめた。さらに何小節か進むと、パプストは指揮台からまったく
離れてピアノの方へ近づき、信じられないという面持ちでホロヴィッツの手を見ながら放心状態で指揮をしていた。
第一カデンツァが終わるまでのパプストの顔は報ぜられたところによると、信じられないという表情を絵に描いたよう
だったそうで、その指揮はホロヴィッツのテンポに合わせ、ただ機械的に拍を打つだけだったという。音の洪水はひきも
きらず、曲尾が近づく頃には、指揮者・オーケストラともども、陶酔にひたり、圧倒された聴衆は我を忘れんばかりだった。
ピアノは、あたかも「退治された竜」のごとく、汗にまみれ控え目な笑みを浮べたホロヴィッツのそばに横たわっていた。
全聴衆は全曲の終わる二小節前に総立ちとなり、万雷の拍手と歓声をおくった。ブラヴォーの叫びが起こり、プログラムが
振り回された。パプストはホロヴィッツへと走り寄り、その肩をつかむと、何回も彼を抱きしめた。・・・・・
「あれが、私の運の変わり目だった。」と後年ホロヴィッツは述べている。「もしあの演奏会がなかったら、私の演奏歴も
たいしたものにはなっていなかったかもしれないね。こればかりは、誰にもわからない。上手に弾いたというだけじゃ駄目
なのだ。」
ホロヴィッツの演奏収録のレコードを初めて聴いたのは、ぼくが小学校の頃だった。ショパンの「革命のエチュード」と
ホロヴィッツのアレンジした「カルメン変奏曲」。それから、高校二年の時にアメリカ、シアトル市長宅での初めての
ぼくのオールショパンリサイタル(この時の思い出をエッセイにしたためたものは、右記をクリックしてご覧いただけます。
→ エッセイ「栄養マヨネーズの思い出」 )
の直前にシアトルのダウンタウンで買ったホロヴィッツのレコードに入っていたショパンの「スケルツォ1番」。
これを聴いて、シアトル市長宅のピアノがニューヨーク・スタインウェイで、ホロヴィッツの使っているものと同じだから
ということで、無謀にも当日のぼくのコンサートに入れてしまったものだ。(だから、
エッセイ「栄養マヨネーズの思い出」の中で
書いているように、当時のぼくは、バン・クライバーンやルービンシュタイン、なんて、眼中になかった。)
・・・・・そして、ずっと、どうやればあんな音がピアノから出せるんだろういうこと、そして、聴衆を楽しませ切る
徹底したエンターテインメントとヴィルティオーゾはずっとぼくの憧れでした。ホロヴィッツの死そのものを悼む気持ち
などは、今のぼくにはさらさらありません。でも、時がどんどん過ぎて行って、アレグロの気分をモデラートで表現したり、
クレッシェンドの気分をデミネンドで表現したり、不必要な五度和音を入れたり、対旋律をわざとらしく強調したり、悪趣味
なアレンジをやったり・・・・・これら全ての操作を聴衆へのサービス精神と金が欲しいというハングリー精神と表層的な
格好よさの追求精神だけでやってしまうことの出来た、古き良き時代の、「鍵盤の騎士」としての最後のピアニストが
この世からいなくなってしまったことはたまらなく寂しい。第一、ぼくが高校生の頃作曲した、「24のエチュード集OP.4」
は、こういう背景から、ホロヴィッツに献呈するつもりで一曲一曲書いたものだったのに、献呈する前に、亡くなってしまった
のだから、ものすごく残念だ。でも、ホロヴィッツのアレンジ手法は、全て、ぼくのアレンジ(ミックスアレンジ、
パラフレーズ、メドレー)の最大の教材として引き継いでいる。今でも、聴衆を楽しませることを考えてプログラムを組んで
ゆけるのは、ホロヴィッツのお陰なので、ぼくだけ一人残された気分で、ひたすら寂しい。ピアノ弾くだけの皆様は誰も
わかってくれなくてもいいんだ。ぼくは、ホロヴィッツを音楽家として、ずっと尊敬している。
この20年くらいの間に、聴いたり見たり(ホロヴィッツ初来日の際、ぼくは友人と徹夜で並んで5万円のS席を買って、
NHKホールへ聴きに行ったものだ。)して、ぼくの頭にこびりついて決して離れることのない、ホロヴィッツのしでかした
様々なシーンを思いつくままに羅列してみたい。
・凄烈な音;ショパンのマズルカ、スカルラッティーのソナタ集、モーツァルトのソナタ、23番のピアノコンチェルト
・マルカートなスケール、アルペッジョ;ショパンの英雄ポロネーズの1オクターブスケール、葬送ソナタ終楽章、
モシュコフスキーの変イ長調のエチュードの最後のスケール、シューマンのクライスレリアーナの第1曲
・完全に音の割れたフォルティシモ;シヨパンのスケルツォNo.1の冒頭の和音
・ダブルオクターブ、クロスオクターブ等のポジション奏法の凄まじさ;チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番の
3楽章最後のダブルオクターブ、ショパンのスケルツォ1番の最後の半音階を、当日のカーネギーホールの聴衆の
ジュリアード音楽院の若い連中をアッと驚かせるために、わざとクロスオクターブでやってしまったこと
・曲の造形力、駆動力が非常に優れていること;往年のラフマニノフのピアノ協奏曲3番でのオケを完全に支配した演奏と
ピアノソナタ3番、カーネギーホール創設85周年記念演奏会でヴァイオリンのスターンとチェロのロストロポーヴィッチを
完全に押さえ込んだチャイコフスキーのピアノトリオ(これを当日の客席で聴いていた指揮者のバーンスタインは
メチャクチャ喜んで、大変な演奏だったそうです。)
・和音を構成する各音の強さの絶妙なコントロールによって作り出される、大ホールでも隅々まで響き渡る異常な
ピアニシモ;オーマンディーとのラフマニノフのピアノ協奏曲3番1楽章の冒頭のニ短調のピアノで提示されるテーマが、
PPPであるにもかかわらず、よく響くPPPなので、オケの分厚さを押しのけてホールの隅々まで響き渡っていることや、
カーネギーホール創設85周年記念演奏会での、シューマンの「詩人の恋」のフィッシャー・ディスカウの伴奏の神技と
しか思えない、全てのピアニシモ和音
・無駄な対旋律の出しすぎ;ショパンのバルカローレ、ワルツOP.64-2嬰ハ短調(しかし、彼の全てのアレンジは、
この、対位法処理能力によって行なわれている。)
・故国を失ったことからくるノスタルジーと溢れ出る歌心;ショパンの幻想ポロネーズの第2主題、リストのウィーンの
夜会、シューマンのアラベスク、トロイメライ
・茶目っけ;ドビュッシーの人形へのセレナード、ラフマニノフのV.R.のポルカ、アンコールに応えられない時に、
ポケットに手を突っ込んでステージ裾に引き上げていったり、ピアノの蓋をしめて引き上げる(これは、来日の時、
NHKホールでやっていた。)等の憎めないステージマナー
・悪趣味なアレンジ能力とエンターテインメント;カルメン変奏曲、星条旗よ永遠なれ、は言うに及ばず、腕が3本ある
としか思えない、メンデルスゾーンの結婚行進曲のアレンジ、ショパンの英雄ポロネーズの左手の五度和音や、悪名高い、
ショパンのスケルツォ1番の最初の編曲(ほとんど曲の原型をとどめていない。)
最後に、彼の最後の音楽に関する手記となったと思われる一節をご紹介しておきたい。
(反論、批判は様々だろうけど、こういう強烈な思い込みだけで、ピアニストとしての生涯を貫いた、最高に素晴らしい
アーティストであった証として)
若い頃からずっと生涯にわたって、わたしは全ての時代の音楽をロマンティックなものとみなしてきた。辞典による
“ロマンティック”の定義;「愛あるいは強い愛情を表したり表現したりすること。熱烈、熱情的、激情的」。わたしは
これらの要素を持ち合わせていない作曲家を一人として指名することができない。とすると、すべての音楽はロマンティック
なのではなかろうか? また、演奏家は古典、ロマン派、あるいはその他いかなるスタイルの音楽を演奏するに当たっても、
知的な解釈に依存するよりはむしろその人のハートに耳を澄ますべきではないだろうか? いうまでもなく、コントロールは
熟達を意味している。しかしながら、創造的であるコントロールというものは、フィーリングとか自発性を制約もしないし、
抑制もしない。それはむしろ好み、スタイルとそれぞれの作曲家にとって適切なものに関する標準、限界および境界の
組み合わせなのである。「イマジネーションの豊かな」「訓練され洗練された心」「自由で物惜しみしないハートと
器楽技巧の“グラドゥス・アド・パルナッスム”的な熟達」。これら3つの要素を平等に備えた芸術的頂点に達した
音楽家はほとんどいない。わたしが生涯をかけて努力してきたものは、このことなのである。
・・・・・ウラジミール・ホロヴィッツ・・・・・
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