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1991年10月27日に開催した、その収益金100%をユニセフを通じて、世界の子供達のために寄付する、アマチュアプロデュースとしては日本初のチャリティ・コンサートだった、「第14回ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート 〜世界の子供達のために〜」(14回という番号は2年ごとに更新されるピアノと遊ぶ会主催コンサートの連番です。)開始総合プロデューサーとしての活動について、裏話も全て含めて、執筆掲載します。

ピアノと遊ぶ会 会長 ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート・総合プロデューサー 岡田克彦

(1991.11.執筆『ピアノと遊ぶ会』会報1991年12月号掲載エッセイを2001.11.18.ホームページ掲載用に追加執筆)



『世界の子供達のためのチャリティ受難曲』




お前に幼な時があったことを、この神々に忠実な、名状しがたいひと時があったことを、
運命によってうち消されてはならない・・・・・リルケ・・・・・



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BGM;MP3:フォーレ作曲「ノクチュルヌ No.6 OP.63 変ニ長調」
by クラシック名曲サウンドライブラリー
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ピアノと遊ぶ会チャリティ・コンサート

1991.10.27.ピアノと遊ぶ会第14回チャリティ・コンサート〜世界の子供達のために〜プログラム
主催;ピアノと遊ぶ会 共催;日本アマチュア演奏家協会[APA(エイパ)]
後援;外務省.日本ユニセフ協会、日本中近東アフリカ婦人会 協賛;協和発酵(株)





「プーーッ、キャハハハ・・・・・ッ。ご立腹のこと、よくわかりました。岡田さんが、一生懸命だってことよくわかりました。本当に大変な目に合いましたね。けど、ものすごい熱気で圧倒されちゃいましたよ。参ったなぁ、クフフフ・・・・・。」

と、国際連合のK氏は電話の向こうで、まるで、モーツァルトみたく天真爛漫に笑って吹き出していました。

この時、ぼくは、「ああ、この人とは仲良くやってゆけるな。」と直感出来たことの方が、チャリティ・コンサート後援名義交渉をうまく運べる自信が持てたことよりもはるかに大切なことだ、と確信していました。






1991年6月のことでした。当時、ぼくは、住友信託銀行本店システム開発第一部に勤務していて、宝塚に住んでいました。が、その3年くらい前、ぼくが東京にいた当時から、コンサート規模が大きくなって来たので、 「ピアノと遊ぶ会」のコンサートはアマチュアがプロデュースしているのだから、年に一回は、チャリティ・コンサートにしよう、という話し合いが幹事会で始まっていました。出演者は全員ノーギャランティーで、会場費などの 経費実費以外の全額を、アフリカ、中近東、クルド難民などにおいて、1年間に1400万人以上もの子供達が5歳前に亡くなっている現状の救済基金に寄付しよう、子供の頃、精神的に豊かな時代を過ごせたぼく達が、 今出来る範囲で何かしたい、という気運が自然に高まっていました。そして、何回かの打ち合わせの中で、ぼくがプロデュース担当理事をしていた、日本アマチュア演奏家協会(APA・エイパ)との共催にして、 500人以上のお客様を動員して、ピアノソロだけじゃなく、室内楽(弦と管)、日本舞踊、歌なども入れた2時間くらいの司会者付きの楽しいクラシックバラエティーショーにしてやってみよう、というところまで具体化して来ていました。

そして、ぼくが1989年の夏に大阪に転勤になって大阪で始めた「ピアノと遊ぶ会」の出先サロンの「コンセール・コスモ」も急成長出来、1991年3月17日に大阪で開催した「第4回コンセール・コスモ・スペシャルコンサート」には、 ウィーン国立アカデミー留学中だった熊井善之君を大阪に呼んで500人を超える聴衆の人達を集めることに成功したこと(この時のコンサートについては、右記をクリックしてご覧いただけます。 → エッセイ「演奏会のプロデュースについて」 )から、 途絶えることなく続いていたこの話が、急転直下具体化し、チラシの作成をスタートする方が先行している状況だったのです。そして、問題は、このチャリティ・コンサートを正式なものとして最初からスタートさせるにあたり、チラシに入れる後援名義、 寄付先の明記、チケット代金の算出等になってきたところで、チラシに入れる後援名義が問題になりました。当時の何回かの幹事会は、アマチュア音楽家がほとんどの全会員コンセンサス合致ポイントとして、還元先を世界の子供達、寄付先を ユニセフ、と決めたり、「まずは、出来ることからはじめよう」という、『ピアノと遊ぶ会』らしい、正式なチャリティ・コンサート開始に関しては右も左もわからない素人だけれども、純粋な熱気にあふれていました。

そして、東京の幹事から、「あとの正式な認可関係は、会長の岡田さんが動いて下さい。」と言われて、これはもう、やるしかない。しかも、背水の陣だと思って、宝塚からぼくは、アクションを起こしたのでした。まず、いつも合奏していた ヴァイオリニストの竹内恵梨子さんが、よくチャリティバザールで演奏していた、「日本中近東アフリカ婦人会」の重光会長は後援名義掲載OKをすぐに下さいました。ところが・・・・・、肝心の、寄付先のユニセフに連絡して、寄付方法を聞くと 共に、ユニセフが寄付を受け取るのだから、後援名義はすぐにもらえるだろうと思って、電話帳をめくったところ、・・・・・な、な、何と、日本にはユニセフが2つもあることがわかったのです。どっちが本物かわからなかったので、両方に宝塚から 電話をしたところから・・・・・

そうなんです、まさしく、「チャリティ受難曲」が始まってしまったのでした。





日本にある2つのユニセフとは、「国際連合児童基金(ユニセフ)」と「(社団法人)日本ユニセフ協会」の2つでした。

まずは、「国際連合児童基金(ユニセフ)」に電話をしました。Hさんという、女性が出てきました。で、お話をしているうちに、ここが、黒柳徹子さんの事務所であること、Hさんは黒柳さんの秘書であること、寄付金の振込口座が第一勧業銀行の 黒柳徹子さん個人名義の普通預金口座であることがわかりましたので、ここはやめよう、とぼくが思ったことを察知した優秀なH女史は

「時間の都合がつきましたら、うちの黒柳が司会をさせていただきますわよ。黒柳は、あの女優オードリー・ヘップパーンと共に国連大使ですし、司会は得意でございますわ。」
とおっしゃいました。

「何を言ってるのこの人、ヘップパーンの方がずっと素敵だよ。」と思いながらも、ぼくも負けてはいられない。

「でも、黒柳様に司会していただくのならば、お車代くらいはお支払いしないといけませんですよね。」

「いえいえ、それは、お気持ちだけで結構ですわよ。そんなお気遣いなく、オホホホホ。」

ますます怪しい。お気持ちが100万円もしたらエラいことだ、寄付が出来なくなる、とぼくが引きかけたことも、 さすがはH女史、見抜いていました。先回りしてこのようにおっしゃいました。

「ユニセフがもう一つございますでしょう、社団法人日本ユニセフ協会というのが。あれをお作りになったのは、あの評判の芳しくない橋本龍太郎さんのお母様ですのよ。あそこにだけは寄付なさらない方がようございますわよ。」

まあ、でも、ぼくは、「徹子の部屋」じゃなく、「シャボン玉ホリデー」の頃の黒柳徹子さんは大好きだったので、喧嘩しても仕方ない。

「お忙しいところ、いろいろアドバイスまで有難うございました。まったく素人なものですから、とても勉強になりました。黒柳様にお願いする時には、必ずお電話いたしますので。」と、受話器を置きました。

さて、続いて、ぼくは、「(社団法人)日本ユニセフ協会」に電話したのです。が、こっちは、もう頭に来ました。
今にして思うと、霞ヶ関から天下ってきたご高齢の男性が受話器をとったのでしょう。いきなり、

「チャリティ・コンサートにうちの後援名義を貸すんだったら、趣意書、企画書、予算書の3点セットは必須なんだよ。 そんなことも知らないのかね、君。まずはだな、この3点セットをうちに郵送しなさい。それを見てから判断するから。 全てはそれからだよ。何、寄付するんだから後援名義くらい構わないんじゃないかって? 寄付は君んとこがしたいんならば すればいいじゃない。後援名義貸与と寄付は全然別だよ。」

で、ぼくがその3点セットの説明を聞く暇もなく、ガチャンと電話を切ってしまったのでした。

さあーーー、もう、ついにぼくは頭に来てしまいました。ぼくがキレたら怖いんだゾ(笑)。

ユニセフは、国連の下部組織の一つのはずだ。ユニセフが日本に2つもあって、どっちに寄付すればいいのかわからないこと自体おかしいし、こっちの言う内容を聞く前から頭ごなしに、「寄付したいんなら勝手にどうぞ。受け取ってやるぞ。」 という日本ユニセフ協会の態度、姿勢、物腰は許せない。これは、もう、国連に電話してトップダウンでやってやろうじゃないか、と思いました。でも、国連の電話番号がわからない。当時のぼくは、国連高等弁務官事務所なんて知らなかったから、 104に電話したのです。国際電話でもいいや、英語で文句言ってやる、と思ってました。で、104の窓口に出た女性に、

「国際連合は何番ですか?」と聞いたところ

「ご住所はどちらですか?」

「ン・・・・・・・・。アメリカです。調べて下さい。」

「あのー、それはちょっとーーーー」ところがしばらくして「ああ、ございました、国際連合ですね。」

本当なの? 今度はこっちがびっくりしました。

「住所はどちらですか。」

「霞ヶ関でございます。」

やったぁー。国連の日本の出張所があったんだ、と思って、早速電話しました。

そして、この電話に出て下さったのが、冒頭に書いた、K氏だったのです。ぼくは、これまでのことを5分間くらいで一気にまくしたてました。ぼくが創設して15年間の実績のある「ピアノと遊ぶ会」のことと、理事をしている「日本アマチュア演奏家協会」のこと、 2つのユニセフの対応、黒柳徹子さんの方はあっちに寄付するなと言うし、もう一つの方は寄付したいんなら受け取ってやる、という言い方をしていて、国連が信用できなくなったこと。何よりも、ぼくたちのチャリティ・コンサートにかける熱い気持ちを 一気にしゃべったのです。全てを聞いて下さって無邪気な爆笑の後、彼の回答は必要十分、簡潔でした。「(社団法人)日本ユニセフ協会」と組むべきであること。また、趣意書、企画書、予算書の3点セットについては、簡潔な説明と共に雛型を 宝塚に即刻FAXしてくれました。

でも、最後に一つだけ彼はぼくに謝りました。

「大体のことはご理解いただけたと思うのですが、岡田様ごめんなさい。実はですね、私のところは、国際連合じゃないんです。外務省国際連合局なんです。後援名義には、外務省も入れていただいていいように私が、チラシの印刷期限の10日後までに 認可をおろすようにします。また、(社団法人)日本ユニセフ協会の方は、外務省から推薦して、明日にでも、OKをとりますので、国連でない点だけはどうかご容赦下さい。岡田様は、ご不満ですか?」

ご不満ですか? って聞かれたら不満を言うしかない、と思って、ぼくも勢い余って言っちゃったのです。

「何だ、外務省なんですか。ぼくはてっきり国連の方だと思ってたのに残念だな。だってね、Kさん、もし、日本が崩壊したら、 外務省なんかおしまいでしょう。でも、国連は大丈夫ですよね。外務省と国連じゃ格が違いすぎますね。・・・・・でも、Kさんの言うとおり、 外務省でもいいです。その理由は簡単です。Kさんのこと素晴らしい方だって気に入ったからです。Kさんと一緒にやれるのなら最高だと思いますから。どうかよろしくお願いします。」

「そうですか。そう言っていただけるんなら、今、あいにく外務大臣の中山太郎は海外出張中なので、代行の国務大臣経由で、外務省の名前を『ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート』チラシや プログラムに掲載できるよう、特に、チラシの印刷版下締め切りの10日後に全て間に合うように私が手配いたします。」

「有難うございます。でも、どうしてなんだろう。104の人にはここが国連だって聞いたんだけどな。」

「名前が似てたから間違えたんじゃないですかね。でも、104の方には感謝したいですね。私、岡田さんのような方とお話するの生まれて初めてで、とーっても痛快でした。 フフフ・・・。黒柳さんのところと日本ユニセフ協会は以前から仲が悪いんですよね。このことも問題ですから、外務省としては、そちらにも指導しましょう。」

こうして、電話を切ったぼくはすぐに、日本中近東アフリカ婦人会の後援名義をとって下さった、東京のヴァイオリンの竹内恵梨子さんに、後援名義が国連にならなかったお詫びの電話を入れたのです。すると、

「素晴らしいじゃない。まだ一回も寄付実績のないところに、外務省が後援名義くれるなんて、ないことよ。よかったわよ。」

「そうなの。ぼく、よくわかんないから、夢中でしゃべっただけなんだけど、でも、どうせチラシやプログラムに名前をのせるんだったら 外務省なんてダサいよ、国連の方がずっと格好いいよね。」

「アハハハーーー。岡田さんらしいわ。でも、国連がチャリティ・コンサートやるんなら自分でやるわよ。後援なんてあり得ないと思うわ。 ともかく、私、すぐに、日本中近東アフリカ婦人会の重光先生にこのこと知らせるわ。重光先生は外務省では顔がきくから、時間がたって 立ち消えにならないように手を打っとくわ。」

ぼくは、迷うことなく、すぐに会社に電話を入れました。今年の夏期休暇1週間は明日からいただきます、と連絡し、東京行きの新幹線のチケットを購入しました。 目的は、もちろん、外務省のKさんに会うことでした。あれだけの短い電話でぼくのことを理解してくれた彼に御礼が言いたかったからでした。 そして、FAXしてくれた雛型をもとに、趣意書、企画書、予算書の3点セットを、日本ユニセフ協会用と外務省用の2セットすぐに作成しました。
ぼくが本気で動く時には、郵政省の世話にはなりません。直接、持って行って手渡すことにしています。

翌朝、新幹線の出る新大阪駅から、「ピアノと遊ぶ会」特別会員の、その、半年前に衆議院議員をご勇退されたばかりの、有島重武先生(大正生まれの有島先生は、 白樺派の小説家、有島武朗氏の甥でした。アマチュアピアニスト、兼、作曲家で、且、J.S.バッハ演奏の名手で、若い頃、ヨーロッパでシュトック・ハウゼン本人に師事した、 という大変なご経歴の方でしたが「ピアノと遊ぶ会」「日本アマチュア演奏家協会」では一切政治色を出さない大変クリーンなアマチュアでした。「ピアノと遊ぶ会」では、 会員のアマチュアピアニスト全員の要望で、たった一人の特別会員になっていただいていました。)に電話を入れました。目的は、先生の衆議院議員だった頃のご経験で、 ぼくの動き方でいいのかどうか、確認をしたかったことです。

「それはいいことです。外務省の人とは、face to face で会うのが一番です。その、Kさんと早く会いなさい。 でも、岡田さんチャリティ・コンサートついに踏み切るんですね。素晴らしいことです。会場はどちらですか?  ああ、永田町の星陵会館ホールですか。私も出演しましょう。まだ、衆議院議員やめて日も浅いので、あのあたりには、 友人が一杯いますから聴きに来させましょう。」

永田町近辺の先生の友人、となると、大体、大使館の人たちでした。これは大変なコンサートになって来たな。

東京についてすぐ、外務省のKさんに電話しました。彼はすぐに言いました。

「まず、新宿大京町の『(社団法人)日本ユニセフ協会』に行って下さい、そのあと、霞ヶ関でお会いしましょう。」

さぁ、あの傲慢な電話応対をした、(社団法人)日本ユニセフ協会にぼくは一人で乗り込みました、どうなることやら・・・・・、 すると応接間に通され、そこには、ぼくの持参した、趣意書、企画書、予算書の3点セットと交換にすぐに後援名義認可書が出てきました。 M氏という方が出て来られました。そして、苦々しそうにこうおっしゃったのです。

「こういうことはですね、寄付実績の一回もない団体に後援名義を出すということはですね、ないことなんです。 でも、今回は外務省さんの推薦だから特別なんですよ。」

でも、せっかく来たんだから、言うことは言っとかないと、と思い、ぼくはにこやかに、寄付を受け取る団体が後援名義を出すのは 当然だと思っていたことなどをお話しました。だんだんM氏も打ち解けてきて、実は、半年前に日本ユニセフ協会が後援名義を貸して 開催した広告代理店D社主催のチャリティ・コンサートが赤字になってしまって、寄付が1円もなかったこと以来、チャリティ・コンサート 自体に対して、信用がなくなっていたことなど、いろいろお話してくれました。で、ぼくは、今回のコンサートはチケットを全て前売りで 売り切る力が現在の『ピアノと遊ぶ会』にあることをお知らせし、

「何でしたら、コンサート開催前に先に寄付をお支払いします。」と言った頃には、彼も笑っていました。

「そこまで、なさらなくていいですよ。チラシが出来たらこちらでもPR打ちますので、送って下さいね。」

そして、霞ヶ関に向かいました。外務省の前からもう一度、報告の電話を、有島先生に入れました。

「どうしたんですか? 今朝大阪から電話下さったばかりなのに何かあったんですか。」

「今、日本ユニセフ協会の後援名義認可書をもらったところです。これから外務省です。」

「岡田さん、今どこにいらっしゃるの?」

ああそうだ。有島先生には東京に来ること言ってなかったなあ、と思いながら、

「今、外務省の前ですよ。」

「えーーーーっ、もう東京にいらっしゃったんですか。」

「だって先生が早く外務省のKさんと会いなさいっておっしゃってたので、会社の方、夏期休暇をとって、すぐに東京に来たんです。」

「フムーーーッ。じゃあ、あなた、今年のせっかくの夏休みは全てこのチャリティ・コンサートのために使うんですね。ご旅行に行ったり、 ご郷里の四国に帰りたかったでしょうに。」

「もうここまで来たらやるしかないですよ。ぼくは、ピアノと遊ぶ会の会長と日本アマチュア演奏家協会の理事なんですから。 東京のみんなが頑張ってプログラム設定までやってくれてるのに、宝塚でじっとしてられないですよ。」

「ああ、岡田さん、やっぱり、あなたはヴァイタリティーの固まりです。よーし。わかりました。 私も一肌脱がないといけませんな、ハハハ・・・・・、久し振りに痛快なことです。ところで、いつまで東京にいらっしゃるの?」

「3日間だけ、世田谷の奥沢の叔母の家にいます。」

「3日ですね。実はですね、まだお話していなかったけど、私は、公明党だったんです。」

「ああそうだったんですか。ぼく全然知りませんでした。いつも東京七区でトップ当選されていることしか存じませんでしたから。すみません。」

「いやいや、謝ることなんかないですよ。で、ですね、霞ヶ関を動かすのは公明党ではなかなか難しいですけど、実は『国会議員クラシック音楽連盟』の 会長を私させていただいていまして。」

「『国会議員クラシック音楽連盟』、それっていったい何ですか?」

「ハハハ・・・・・、私が作ったクラシックの好きな国会議員仲間の集まりです。」

「そんな団体があるんですか、日本もまだまだいい所ありますね。」

「いやいや、小さなものですよ。会員は20名程度ですから。でも、そこに自民党で、外務省に顔のきく議員3人がいます。その3人に明日と 明後日中にあなたに会うように私がすぐにセットします。そしてね、外務省のKさんルートで外務省後援がOKならばそれでいいのです。 それが正攻法なんですから。もう既にあなたが動き出しているのに、いきなり国会議員が出てゆくのは非常に外務省の人達の心情を 傷つけてよくないことが多いんです。でも、ここまであなたが頑張ってるんだから、もし、外務省のKさんルートが万一だめな時の 最後の手として、この3人には会っておきなさい。この3人が動いたら、絶対大丈夫です。だから、自信持って、外務省のKさんに 会ってらっしゃい。あなたの熱意は必ず伝わりますよ。あなたも、夏休み返上で大阪から来て、何も受け取れずに帰るわけにはいかないでしょう。 共催してくれる、日本一の伝統のあるアマチュアサークルの日本アマチュア演奏家協会(APA・エイパ)の沽券にもかかわる問題ですから、 何としても、第一回目から『外務省』の名前を『ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート』のチラシに載せなくちゃいけませんよ。 それとね、既に後援名義を下さった日本ユニセフ協会をお作りになった橋本龍太郎先生のお母様、私は個人的にすごく親しくさせて いただいていますので、そちらには、別途御礼の連絡を私から入れておきましょう。」

「本当ですか。何から何まで、有島先生、本当に有難うございます。でも、ぼくがまだ会ったこともないその3人の先生方はみんな クラシック好きなんですね。ぼく、音楽の話しかしなくてもいいですかねぇ。」

「ハハハ・・・・・。いいですとも。そのあたりも、私から言っておきましょう。私を本気にさせてしまったんだから、大丈夫。 3人の国会議員とは議員会館で会えるように手配しますから、こちらも、普段通り、全員、今回のチャリティ・コンサートのチケットの マーケットだ、くらいに思って、平常心で会ってらっしゃい。面会時間は、今夜、奥沢の叔母様のお宅に私が連絡入れましょう。」

ぼくは、この有島先生の言葉に励まされて、外務省に入りました。





有島先生と、こんな政界のお話をしたのは初めてでした。有島先生は1983年の「志賀高原音楽祭・ピアノと遊ぶ会」に出演したい、 ということで「ピアノと遊ぶ会」に入会されました。当時、ぼくの住んでいた「住友信託銀行・小金井寮」に、入会希望のお電話を いただきましたが、その電話口で、

「岡田さんのやっている『ピアノと遊ぶ会』は若い人達が中心だと承っていますが、私のようなおじいちゃんを仲間に入れてもらえますかね。」
とおっしゃったのが始まりでした。ぼくはもちろん

「音楽に年齢なんて全く関係ないことです。どうぞ、ご入会して下さい。」

と答えました。

そして、志賀高原に彼は、黒塗りの車で秘書と一緒にいらっしゃったのです。
その時初めて、有島様が国会議員だとわかりました。そして、

「私の秘書はファゴットが上手いので連れて来ました。通奏低音で役に立つようだったら使って下さい。」とおっしゃいました。

えーーーっ、こんなぶっ飛びの国会議員がいらっしゃるんだ、と、出席者約200人は全員驚きましたが、彼のその時の『ピアノと遊ぶ会』 デビュー曲目は、若い頃、ヨーロッパで、シュトック・ハウゼン先生に教えてもらったという、J.S.バッハの『パルティータNo.2』全曲でした。 全曲は長いけど、ぼくは敬老の精神で、OKを出しました。が、演奏が始まって、そのようなものは吹き飛んでしまいました。

敬老だなんて、何て失礼なことを考えてたんだろう、とぼくは恥ずかしくなりました。そして、ドライなベーゼンドルファーのような音が、 彼の弾いているヤマハのグランドピアノから出て来た時、会場を埋め尽くした、音楽大学の学生、アマチュアのピアニスト、弦、管楽器奏者、 全員、シ〜ンとなってしまいました。それもそのはずで、その少し前に来日して、この同じ曲目をNHKホールで演奏したアルゲリッチなんか とは桁外れに素晴らしい演奏だったのですから。しかも、さらにすごかったのは、ベートーヴェンの『大公トリオ』をヴァイオリン奏者とチェロ奏者 の突然の依頼で、その音楽祭で演奏したものが素晴らしく、今でも、語り草になっています。有島先生に「ピアノと遊ぶ会」のたった一人の 特別会員になっていただくことは、ですから、その日に決定したのでした。以来、「ピアノと遊ぶ会」での出演の他、このホームページ エッセイ集にも掲載している エッセイ「1986.10.10.P.M.」で書いている、「ピアノと遊ぶ会」の会員だった桐朋音大ピアノ科在学中だった 有森直樹君が、日本音楽コンクールピアノ部門で、見事、シューマン作曲「交響的練習曲」の演奏で優勝した1986年の年末 の「有森直樹君・日本音楽コンクールピアノ部門優勝祝賀パーティー」兼「ピアノと遊ぶ会忘年会」に、お忙しい、衆議院予算 委員会の合間に、乾杯の音頭のためだけにご出席下さっていました。





「NTT104の名前はよくわかんないけど、
間違えてくれたお嬢様にカンパイ!」


外務省国際連合局のKさんとぼくは、麦茶の入ったグラスでカンパイしていました。
具体的には、彼は、外務省国際連合局人権難民課に所属していました。ユニセフ関係のチャリティ管轄は、外務省国際連合局社会教育課だったのですが、ぼくが電話を入れた時、 社会教育課の人が誰もいなかったので、彼が受話器を取って下さったのでした。いろいろな偶然の集積から、彼と出会うことになったのです。

驚いたことに、外交官のKさんは、まだ、25歳でぼくよりも9歳も年下でした。でも、非常にジェントルでユーモラスで、面会する人のハートを和ませる秘訣を既に身につけていました。

「岡田さん、ぼくはですね、クラシックだったら、ラヴェルとJ.S.バッハが好きですね。でも、一番好きなのは、スローバラード、ジャズ、ブルースなんです。疲れた時なんか、スローバラード聴きながら、 バーボンをストレートで飲むのが一番ですよ。スコッチじゃダメなんだよな、こういう時は。」

「ぼくは、外務省に来るの初めてなんですけど、Kさんのいらっしゃる外務省国際連合局人権難民課ってどんなお仕事されているんですか?」

「そうですね、世界のあちこちで、戦争が起こったり、災害が起こったりした時のクイックな対応ですね。だから、結構長時間勤務なんですよ。 大体、夜中の3時くらいまでは毎日働いています。ロンドンの為替市場が開くまでは全員いますしね。」

「本当ですか。でも、毎日毎日、そんなに遅くまで働いていたら、体壊しますよ。ぼくはずっと民間企業で働いていたので、漠然と、公務員は楽だと思ってたけど、 びっくりだな。外務省は違うんですね。」

「他の省庁の事はよくわかりませんが、ともかく、外務省国際連合局は大体そうですね。でも、そんなことより、今日岡田さんとお会い出来たら是非聞きたいことがあったんですよ。ぼくって、公務員っぽいですか?」

「いや、全然、そんな風には見えないですよ。」

「そうなんだよなあ、みんなに言われるんです、『もっと公務員らしくしろ。』って。」

「今のままの自然体が一番いいとぼくは思いますよ。第一、ぼくがあんなすごい電話いきなりかけた時、Kさんだったから話聞いてくれたと思いますよ。公務員的な対応っていうのは、日本ユニセフ協会の対応だと思いますからね。」

「ハハハ・・・・・。」

「でも、さっき、日本ユニセフ協会が後援名義認可書を下さったのですが、これも、Kさんが手を回して下さったからですよね。有難うございます。」

「外務省の方は、7日待って下さい。後援名義認可は大丈夫だと思いますが、チラシ印刷のご予定もあると思いますので、もし、ダメなような状況になったらぼくから早めに岡田さんに連絡します。」

もう、この時点で、外務省の後援名義の結論はどっちでもいい、とぼくは思っていました。そんなことよりも、Kさんと出会えたことの方がぼくの中では、はるかに重要なことでした。彼とはいろんなお話をしましたが、 二人の最大の共通項は、リルケでした。リルケの詩と『若き詩人への手紙』『マルテの手記』の根底に流れている一種のニヒリズムと深い人間愛について二人で熱く語り合いました。ここが霞ヶ関だなんて、信じられませんでした。 さすがは外務省、こんなすごい若者がいるんだ、とわかって、ぼくはとても嬉しかったのです。

「この前の、突然のお電話の最後で、ぼく、ずい分失礼なこと言っちゃってごめんなさい。日本が崩壊したら、外務省もおしまいだって言ったこと、訂正します。日本は崩壊しないです、外務省にKさんのような方がいて、頑張って下さっている限り、日本は大丈夫だと、今日確信できました。本当に有難うございました。」

「いやーーー、そんなにぼくのこと一方的に褒めないで下さいよ、ぼくだって岡田さんと出会えて最高に嬉しいんだから、照れちゃうなあ。でも、岡田さん、チラシが出来たらかなりな枚数、ぼくに送って下さいね。東京にある全ての国の大使館にぼくが持参してPRしますから。」

「本当ですか。わかりました。必ずいい演奏会にしてみせます。」





その夜、奥沢の叔母宅に、有島先生から3人の先生とのアポイントメントの連絡があり、彼が、ドビュッシーで出演すること、イタリアのマクニャーガ国際ピアノコンクールで優勝したばかりだった、ウィーンの熊井君からも、 早めに帰国して出演してくれること、作曲家の大井君から、ぼくがあらかじめ紹介していた、花柳徳兵衛氏の一番弟子の花柳衛与志(もりよし)先生との自作の合わせが抜群にうまく行っている報告がありました。 そして、肝心のぼくがピアノで入ってやる予定だった、ピアノ四重奏の最後の演目は、外務省のKさんの、冒頭で紹介した、天真爛漫な笑い声に基づき、その日に、叔母の家で完成しました。 Kさんの大好きなスローバラートを基調にしたピアノ四重奏曲「来年もよろしく! OP.64・・・外務省国際連合局・外交官・K氏に献呈・・・」でした。演奏の最後になるので、「来年のチャリティ・コンサートにも来て下さい。」という願いを込めて、 「蛍の光」をアレンジしたものですが、得意のミックスアレンジを使いました。すなわち、モーツァルトの「ディヴェルティメントK.334」、ショパンの「エチュードOP.25-5」、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲の1番」、ショパンの「小犬のワルツOP.64-1」、 「ハノンの1番」の5曲のモティーフを散りばめて、完全に能天気な作品にしました。





こうして、翌日と、翌々日、ぼくは、有島先生ご紹介の国会議員の先生3人と会い、最悪のシナリオになった時の対応も整えました。 また、早稲田大学政経学部経済学科堀家文吉郎教授研究室時代の親友の、以前はモービル石油に、当時は日本ペプシコーラに勤務 していて、ぼくがかつて、彼とピアノ演奏の堪能な彼の奥様のホテルオークラでの結婚式披露宴でピアノ演奏をさせていただき、 また、自作の ピアノ組曲「みちのくのスケッチ」を献呈していた渡部卓君と、久し振りに上京したので新宿で飲んでいる席上で、この チャリティ・コンサートの話題が出ました。

「外務省が後援してくれるといいんだけどなぁ。どうなるかまだわかんないんだよ。」と言ったぼくに、渡部君は、

「外務省が後援してもしなくてもいいじゃないか。岡田君のプロデュースするチャリティコンサートは俺が後援してやるから それでいいだろ。そんなに悩むなよ。」なんて優しいことを言ってくれ、思わず爆笑していました。

「タク(渡部君の愛称)が言って励ましてくれるのすごく嬉しいよ。でも、やっぱ、タクよりかは外務省の方がいいな。」(爆)

「岡田君は俺より外務省の方が好きなんだな。全くぅーーー頭に来るひでぇ奴だ。」(爆)

「タクのこと大好きだよ。でもね、若い外交官のKさんっていう人も素晴らしい人だよ。」(爆)

「外交官か、やっぱすごい男なんだろうな。でも俺も外交官やってる人会ったことあるけど、いつもぶっ飛んだこと考えてて、 国家公務員では一番面白いよな。だからさ、今回の件、もう少し早く俺が知ってたら、演奏会場は政治家の動めく永田町の星陵 会館なんて怪しげな所じゃなくってさ(爆)、イギリス大使館のホール紹介出来たんだよな。あそこには俺の作った『早稲田大学 セサミクラブ』(渡部君が早稲田大学1年の時に『ESS』に対抗して作った英会話のサークル)の後輩がいるんだよ。」

「本当なの。イギリス大使館にコンサートホールがあるの? 知らなかったよ。」

「だろ。大阪だか宝塚だか知んないけど、田舎に住んでると感性が鈍るんだよ。早く東京に帰って来いよ。」(爆)

「うるさい(爆)。タクだって転勤で仙台に住んでたことあるじゃない。大阪は少なくとも仙台よりは都会だよ。それに食べ物は 絶対に徳川家康の開いた、貧しい東京なんかよりずーーーーーっと美味しいんだよ(爆)。でもさ、イギリス大使館のコンサート ホールってキャパどれくらいなの?」

「200人くらいかな。」

「じゃあ、今回のチャリティコンサート会場には無理だな。もっと広いところで大勢集めないと、寄付するお金が集まらない んだよ。」

「また、お金お金か。銀行で働いてるとだんだん拝金主義になっちゃうんだな。いかんよ。」(爆)

「うるさい(爆)。早稲田通りの緑荘で徹夜麻雀一緒にやって、たくさんタクには振り込んであげたのにさあ、その恩を 忘れてはいけないんだよ。」(爆)

「そんなことよりさ、もうちょっとしたら、俺、大阪に出張するんだ。ちょっと長期になるんだけど、その時はよろしくな。」(爆)

「うん。いいよ。けど、タク、何しに大阪に来るの?」

「マーケットリサーチさ。」

「マーケットリサーチって、まさか『ペプシコーラ』のマーケットリサーチをしに大阪に来るの?」

「そうさ。」

「ハハハ・・・・・。なら、やめた方がいいよ。『ペプシコーラ』みたいなまずいもの、東京でしか売れないよ。大阪の人達は みんな舌が肥えてるから、『ペプシ』なんて絶対に売れないの最初からわかってるから来てもムダだよ。」(爆)

「そこまで言うか、コノヤロ。」(爆)

等々、いつものバカ話をして別れたのでした。が、その翌日、渡部卓君の紹介で、協和発酵のO氏から電話があり、素晴らしい活動 が日本のアマチュアから始まったことを応援したい、とのことで、ブルゴーニュワイン50ボトルの寄付が来ましたので、お客様 全員に休憩時間にお出しすることになりました。

この協和発酵の寄付にはびっくりしました。タクが大阪に来る時には、何とかしなくちゃ、 と思って、とりあえず、ぼくの働いていた住友信託銀行の後輩で、3年間のロサンゼルス支店勤務後、帰国して企業情報部にいた N君に電話を入れて、赤坂にあった『日本ペプシコーラ』に行ってもらい、M&Aの話 を通して、渡部君と渡部君の上司と仲良くするよう伝えました。

ワインの寄付が来たので、普通のコンサートだと、ステージマネージャーだけでOKなのですが、今回はロビーマネージャーも 置きました。有島先生と外務省が動き出すことが予想されましたので、お客様のかなりな部分が、外国の人たちになると思いま した。そこで、ニューヨークに3年間住んでいた三井物産勤務のピアノと遊ぶ会副会長の宮田彰君と、前述の、ぼくの会社の 後輩のN君という、英語の堪能な2人にロビーマネージャーを頼み、その周囲に東京外国語大学ピアノの会会員の女性に依頼 して、ロビーにて、お客様全員にこのワインをお出しするよう手配しました。





こうして、1991年10月27日の「第14回ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート 〜世界の子供達のために〜」のプログラムが、下記のように、確定しました。


「第14回ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート
〜世界の子供達のために〜」(ブルゴーニュワイン付)
プログラム


主催;ピアノと遊ぶ会
共催;日本アマチュア演奏家協会(APA・エイパ)
後援;外務省、日本ユニセフ協会、日本中近東アフリカ婦人会
協賛;協和発酵株式会社
日時;1991.10.27.(日)P.M.1:30開演
場所;永田町・星陵会館ホール
司会;永井邦子



シューベルト; ピアノ五重奏イ長調OP.114 D.667(鱒)第4楽章
フォーレ; 夢のあとに

早稲田大学律ゾリステン弦楽合奏団(ピアノ;中野泰、ヴァイオリン;山本恭子、ヴィオラ;高橋哲、チェロ;崎田幸一、コントラバス;松野茂〔国立音楽大学教授〕)


ドビュッシー; ベルガマスク組曲より、プレリュード、月の光
プレリュード第一集より、亜麻色の髪の乙女
「子供の領分」より、ゴリウォーグのケークウォーク

ピアノ;有島重武


シャーマン兄弟−大滝雄久編曲(1989); 木管ピアノ六重奏「イッツ・ア・スモール・ワールド」
ドビュッシー−磯部周平編曲(1983); 木管ピアノ六重奏「小組曲」

アンサンブル・レ・シルフィード(ピアノ;落合伸昭、フルート;谷水克行、オーボエ;鶴巻信利、クラリネット;古賀朋子、ホルン;大橋玲ニ、ファゴット;富田達志)


大井泉; 「松の緑」(三つの主題)による幻想曲(1984)
舞;花柳衛与志(もりよし)
ピアノ;大井泉


・・・・・  休憩(ブルゴーニュワインサービス)  ・・・・・

チャイコフスキー; 弦楽セレナードより、
アンサンブル・カプリース(東京芸大卒業生と一橋大学オーケストラOB弦楽アンサンブル)


ショパン; ノクターン OP.9-2
バラード No.1 ト短調 OP.23
ワルツ OP.64-1(小犬)

ピアノ;朝倉千春


サン=サーンス−岡田克彦編曲(1989); ピアノ四重奏のための『白鳥』・・・ラヴィーヌ・カルテット用・・・
フォーレ; ピアノ四重奏 No.1 ハ短調 OP.15 より、第4楽章
岡田克彦; 来年もよろしく! OP.64(1991)・・・外務省国際連合局・外交官・K氏に献呈・・・

ラヴィーヌ・カルテット(ピアノ;岡田克彦、ヴァイオリン;竹内恵梨子、ヴィオラ;石井尚、チェロ;小林正彦)


シューマン; アラベスク他
ピアノ;熊井善之






さて、次に、チケット代金の決定に入りました。ぼくは、当初、2000円で行こうと思っていて、予算書の寄付予定金額もその金額で 出していました。が、幹事との間で、ワインも出すんだからもっと高くしてもいいんじゃないか等、いろいろな意見が出ましたが、 やはり、2000円で行くことにしました。ここで、「ピアノと遊ぶ会」副会長の宮田彰君が、またまたぶっ飛びの意見を出して来ました。 宮田彰君とは、歳も一緒で、学生時代からのアマチュアピアニスト仲間でしたが、日本拳法家でもあった彼は日本のアマチュア ピアノ界では、非常に有名な男です。何しろ、三井物産ニューヨーク支店勤務中に、ジュリアード音楽院ピアノ科の夜間コースを 首席で卒業して帰国したので、「音楽の友」のグラビアにも出ていました。しかも、帰国の際、現地購入だとはるかに安くなると いうことで、ニューヨークスタインウェイを買って来ていて、彼の住んでいる市ヶ谷のマンションにはその素晴らしいニューヨーク スタインウェイがあって、それを弾きに行く仲間もいっぱいいました。

彼の意見は、こうでした。アメリカのチャリティ・コンサートではパトロン席というのがあって、1席が日本円で30万円は下らない。 今回もそのような席を一緒に売り出したらどうか、というものでした。経費以外が全て寄付に行くんだから、多額に寄付したいと思う人は、 2000円オンリーだと不満を感じるだろう、とのことでした。

「マジですか?」とほとんどの幹事がそんなことあるのかな、と耳を疑いましたが、

「ニューヨークで出来ることが、東京で出来ないことはない。」と彼は言いました。

「でも、日本のチャリティ・コンサートでやったっていうの、聞いたことがないよな。」

「だからやるんだよ。初めてだからいいんじゃない。目立つことしなくちゃダメじゃないか。岡田君、予算書はあくまでも予算だから、予算以上に寄付が増えるのはいいよね。」

「それはそうだけど・・・・・、そっかあ、なるほどね、単に、寄付のためだけに買うという人も出てくるんだね。」

「外務省公認だったら出てくるはずだよ、きっと。」

「わかった。ともかく、2000円のチケットで700席完売は確実なんだから、上乗せになるということだね。出来るかどうかやってみよう。」

「じゃあ、ギャランティーつけないといけない。」

「まず、座席、これは簡単だね。でもさ、もし、何万円も払いたいっていう人がいるんだったら、何がいいかな? じゃあ、1年後のチャリティ・コンサートまでの『ピアノと遊ぶ会会報』の無料送付つけよう。」

「それと寄付結果報告と、領収書が必要だね。寄付控除に使うだろうから。さらに、プログラムへの芳名掲載。」

「個人だけじゃなく、法人でも買えるようにしようよ。」

「名前が『パトロン』ってよくないよな。」




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




さすがは、15年以上続いている集まりの中心メンバーでした。すぐに、宮田君の言い出した「パトロン席」、改め、「特別寄付者指定席」の 概略が決定しました。



「特別寄付者指定席」規定
1万円以上上限なし
個人、法人関係なく購入可
ギャランティー・・・・・指定席の提供、1年後までの「ピアノと遊ぶ会会報」の無料送付、9月末日までに購入した方のプログラムへの芳名掲載(辞退も可能)、領収書の発行、寄付結果報告の送付







プログラムへの広告掲載については、ずっと「ピアノと遊ぶ会」サロンコンサート会場として使わせていただいていた、『銀座・ピアノ・アート・サロン』『(社)PTNA』等がご協力いただけることになりました。 このあたりの手配と、ロビーでのワイン配布をしてくれる東京外国語大学ピアノの会会員の協力依頼などは、当時、 「早稲田大学ピアノの会」幹事長をやりながら、『ピアノと遊ぶ会』幹事でもあった、中野泰君等、大学生の若手が頑張ってくれました。 ですから、彼ら大学生には、一般席2000円のチケットの販売のみで十分だからと言い、1万円以上の「特別寄付者指定席」については、 宮田君とぼくの二人で何とかしよう、という覚悟でした。





こうして、全ての手配を終えて、宝塚に帰った後、外務省から、後援名義認可書が届きました。そして、ぼくは、またまた気に入って しまったんです、外務省のことが。なぜなら、その宛名が、ぼくの個人名になっていたからなのです。日本ユニセフ協会のものもそうでしたが、 「ピアノと遊ぶ会」御中というのが、日本の習慣では普通なのですが、外務省は、その団体の代表者個人名に全ての文書を出していることが、 その時わかりました。なるほどなあ、アメリカの大統領に文書出す時も、「・・・・・大統領」と出すに決まっているから、 外交ではこういうやり方が常識なんだな。でも、この文書はさすがに重いものでした。なぜなら全ての責任は、ぼく個人にかかってくるの ですから。予算書で提出した金額の寄付が出来なかったら、ぼくが個人的に負担しないといけないっていうことだな、と思いました。 早速、有島先生に、外交官のKさんのルートで後援名義がOKだったので、国会議員の先生方に動いていただかなくても大丈夫な由、 ご連絡しました。





こうして、本格的なPRに入りました。まず、外務省後援のコンサートということになりましたので、「ピアノと遊ぶ会」会員の勤務していた 会社の社内報でかなりなPRを打って下さいました。APA(エイパ・日本アマチュア演奏家協会)においては、西村会長(西村会長は、 元「そごうデパート」の会長で、明治生まれの素晴らしいアマチュアチェロ奏者でした。ぼくがAPAに入会した23歳の頃から、ものすごく 可愛がって下さっていましたが、この時も大変なバックアップをして下さいました。)を筆頭に、会報でのPR、理事会、幹事会でのPRを 打って下さいました。もちろん「ピアノと遊ぶ会」会報でのPRも功を奏し、関西でもかなりな販売になりました。また、外務省経由での大使館へ のPRから、外国の人達がたくさん買って下さったようです。

結果、チケットについては、全て9月末に前売りで120%完売、代金は全て、銀行振込で完了しました。特に、宮田君の言い出した、 「特別寄付者指定席」が、50枚以上売れたこと、それも、3万円から5万円が主流だったことには、びっくりしましたが、やはり、法人、 団体名での購入が多かったこと、特に、プログラムの「特別寄付者指定席ご購入者ご芳名」の欄に、日本アマチュア演奏家協会所属の 各室内楽例会、弦楽四重奏団、東京都内市民オーケストラの名前がズラーーーっと並んだことは壮観でした。 もちろん、これまでのピアノソロに特化しない「ピアノと遊ぶ会」の活動が全て反映されたわけですが、 これで、外国の人達にも、文化面で東京が引けを取らない点を、十分納得していただけるだろうと思いました。

早速、(社)日本ユニセフ協会のM氏には、

「これで当日が集中豪雨になっても大丈夫ですよ。本当に先に寄付を振り込みましょうか?」

と電話を入れましたが、

「当日の会場にチャリティ募金箱を置いてもらいたいので、その募金箱の中のお金も含めた収支報告でいいです。」

とのことで、募金箱を送ってきました。

で、またまた、驚いたことに、その募金箱には、何と、募金箱の蓋をするシールがついていて、シールを貼って、(社)日本ユニセフ協会に箱ごとお返しするようになっていたのです。

「こんなシール貼っちゃったら、中のお金が数えられないじゃないですか。」と、またぼくはM氏に文句の電話を入れました。

既にこの頃、(社)日本ユニセフ協会と『ピアノと遊ぶ会』の立場は逆転していました。

すると、(社)日本ユニセフ協会のM氏は、

「そのシールは、『ユニセフ』『チャリティ』という言葉を使って、お金を横取りしようという浅ましい人達、『偽者チャリティ』の対策上 つけてあるシールなので、『ピアノと遊ぶ会』様では、中身を出して収支報告に加えてもらえればいいですよ。」
とのことでした。

この時、最初に、(社)日本ユニセフ協会にぼくが電話した時の、門前払いに近い対応の理由が、いつの時代にもいる悪い奴への 防波堤であったということがわかりました。

さらに重要なことは、マスコミ、芸能界をバックに、『ユニセフ』『チャリティ』の名を使って、寄付を集めている、黒柳徹子さんの方の 寄付振込み口座が第一勧業銀行の黒柳徹子さんの個人名義の口座になっている理由も全てわかりました。なぜなら、当たり前の ことだけど、(社)日本ユニセフ協会という非課税法人を通せば、寄付金に贈与税はかからないのだけれども、黒柳徹子さんの 個人名義口座を通せば、寄付金に全て贈与税がかかりますから、日本政府による、明らかな差別化が行なわれていること、 日本政府として公式に認めている寄付ルートが、(社)日本ユニセフ協会であることも全てわかり、謎が解けました。そして、マスコミ、 芸能界の黒柳徹子さんを使った横暴なやり方に、外務省も(社)日本ユニセフ協会も頭を抱えているのだということもわかり、 ぼくは「ケッ!」とハキ気がしてしまったのです。

そう言えば、この前、どっかのTV番組に出演した、黒柳徹子さんが、「寄付金に贈与税がかかるなんてひどい話ですわ。」と涙を流して いましたが、あれも演技だったのです。「シャボン玉ホリデー」に出てた頃の、若かりし頃の黒柳徹子さんの一生懸命で純粋な演技は、 本当に素晴らしいものだっただけに、人間、年をとって、どれだけ『国連大使』などという肩書きを手にしても、初心を忘れちゃダメですよね。

その意味では、今回の「チャリティ・コンサート」総合プロデューサーをしたぼくにとっては、黒柳徹子さんの歳の取り方は最悪なものの一つとして、 「偉大な反面教師」としての価値しか残りませんでした。TV局は、全てを視聴率で判断していて「徹子の部屋」はその点で、スポンサーも ついてうまくいっているのでしょう。

でも、全ての物事について、一番の強みは、若さです。余命いくばくもないことでしょうから、申し訳ないことだけれども、黒柳徹子さんは 20世紀に置き去りにされればよい程度の人物です。







有島先生ルートもたくさんのチケット販売にご協力下さいました。事前に、元衆議院議員がドビュッシーを弾くというPRをマスコミを使って やったらどうか、という幹事もいましたが、これは、有島先生に対して大変に失礼なことだから、とぼくが押さえ込み、且、その幹事には ぼくが直接注意しました。

マスコミを会場に入れることは絶対に避けたかったのです。出演前で緊張している人、出演後ホッとしている人、全てについて、 あつかましい傍若無人なインタビューをぶつけられることほどひどいことはありません。このあたりは、その後勃発した「阪神大震災」への テレビ局の頭の相当悪い若いパッパラパーのインタビュアーの報道を見れば、皆様はご納得いただけるはずだと思います。 第一、芸能界入りを目指している人など、今回の出演者には一人もいなかったのです。自分の芸術や芸をお金に変えることに何の 躊躇もない人達は、絶対にギャランティーを要求するに決まっていますから、最初から「ピアノと遊ぶ会」「日本アマチュア演奏家協会」 共催の「チャリティ・コンサート」のコンセプトとは一致しません。

従って、現状、過去の既得権にあぐらをかいているだけの黒柳徹子さんの司会など、最初から門前払いに決まっていたのです。

有島先生がステージでドビュッシーを弾くのは初めてでした。が、演奏された、当日のドビュッシーの「子供の領分」の『ゴリウォーグの ケークウォーク』。独特の間の取り方も去ることながら、右手に再現するテーマを1オクターブ上下で交互に弾いて、ダイナミスムを 調節する等の即興性に満ちたものだったので、特に、東大、早稲田、慶應等の、各大学内のピアノサークルに所属していたアマチュアの 『ピアノと遊ぶ会』会員の学生達は全員腰を抜かして感動していました。

そして、「大正デモクラシーってすごいな。」 と、大評判になったことは言う間でもありません。





それから、ぼくのプロデュースで今回初めて導入した、日本舞踊の舞とピアノのデュオについては、今回のプログラムの目玉でしたので、 是非書いておかなくてはなりません。すなわち、花柳衛与志(もりよし)先生の演目です。早稲田大学文学部を卒業した大井泉君(男です〔笑〕)は、 当時、サラリーマンでしたが、「早稲田大学ピアノの会」幹事長をしていた中野泰君の一代前の、「早稲田大学ピアノの会」の幹事長でした。 彼の作曲した「松の緑」(三つの主題)による幻想曲(1984)は、彼のおばあ様が三味線の名手で、小さい頃から「松の緑」を聴かされていたので、 その思い出のつまったモチーフと、沖縄音階とモダニズムを合体させて書いたピアノ曲です。曲は、「松の緑」で始まり、中間部が「元禄花見踊り」、 第三部が「阿波踊り」でした。その3年前のピアノと遊ぶ会での初演当時から、ぼくはとても気に入った作品だったので、スコアをコピーさせてもらって、 正直なところ、こういう曲はぼくには書けないな、と彼の才能には参っていました。

一方の、花柳先生とぼくは、ぼくがまだ25歳の頃、新宿京王プラザホテル7階のサウナで出会いました。 その日は、「ピアノと遊ぶ会」例会の1週間前で、ぼくは、会社の方でもらった割引券で(割引がないとこんな高級サウナには 当時行けなかったのです〔笑〕)ピアノの練習でクタクタになって腱鞘炎防止に一番効果のあるサウナから出て、休んでいた時でした。 そして、その1週間後の「ピアノと遊ぶ会」の例会で「早稲田大学ピアノの会」ナンバーワンのアマチュアピアニストの金子一朗君が、 ラヴェルの「夜のガスパール」を弾くか「クープランの墓」を弾くか迷っていたので(全くぜいたくな悩みですよね)、どっちでもいいよ、 とそこの休憩室の公衆電話から電話を入れてリクライニングシートに戻ったら、テーブルの上にビールが置いてありました。 となりにいた、ぼくよりもちょっと年上の方が「どうぞ、喉渇いたでしょう。」とご馳走して下さったのです。そして、 「ピアノなさるんですか? 今、ラヴェルのお話しているの盗み聞きしちゃってごめんなさいね。」と自己紹介して下さいました。 この方が、花柳衛与志(もりよし)先生で、創作舞踊第一人者の花柳徳兵衛先生の一番弟子でいらっしゃったのです。 先生は、国立劇場で舞った後、サウナで休んでいる所でした。で、ぼくが作曲をしていると言った頃から先生の目が輝き始めました。 そして、「来週、渋谷東急劇場で、1ヵ月後、国立劇場で私が舞いますので。」と、招待券を2枚ずつ、4枚も下さいました。 「気に入ったものがあったら、あなたの得意な音素材で曲を書いて見て下さい。そして、うまく行くようだったら、 私が振付けて舞いましょう。」と言って下さったのです。

ぼくはびっくりしました。でも、ともかくその2つの会にぼくは行きました。そして、初めて「鷺娘」に感動し、これを26歳の時、 「舞とフルート、ティンパニ、ピアノのための『鷺娘』OP.70」という作品にしました。先生は非常に気に入って下さり、振り付けまで 考えて下さったのですが、どう考えても、これを初演出来る会場がありませんでした。また、その内やるつもりです。が、しかし、 先生の奥様が藤間流の名取で、且、ピアニストであったことから、三鷹の練習スタジオ併設のご邸宅には、当時ぼくの住んでいた 小金井が近かったので、何回も遊びに行きましたし、奥様はぼくの作曲した「ヴァイオリンとピアノのためのファンタジーOP.58」が大好きで、 『あなたは、天才よ。』といつも、夕食をご馳走しながら励まして下さり、本当にお世話になりっぱなしの状況だったのです。

で、ぼくが、大阪に転勤になった時、どうしても、この大井君の作品の「松の緑」(三つの主題)による幻想曲(1984)を花柳先生に聴いて 欲しかったので、ご紹介しました。この時、ぼくは、やっぱり一生懸命動いていたら神様は助けてくれるんだと確信しました。

何故なら、大井泉君の自宅は三鷹で、花柳先生のご近所だったのです。先生も、この大井君の作品を気に入って下さって、ぼくが大阪に 転勤している間、大井君が、いろいろと原曲を舞に合わせるために変更すること等とリハーサルは、十分に出来ていました。 従って、このデュオについては、このチャリティコンサートの翌年の、大阪市長と福島区長の依頼で開催した「弟4回大阪市福島区民文化 の集い」においても再演していただくよう、ぼくの方で、セットしました。が、このチャリティ・コンサートの日が初演でした。

後述のように、当日の聴衆のかなりな部分が、外国の方だったのです。

特に、エンディングは最高でした。早変わりの後、松のお扇子を7枚も使い、この作品の最後のダブルグリッサンドの所では、 松づくしを演出し、先生が松の木になった瞬間、外人の聴衆は全員スタンディングオベーション、ブラヴォーの叫びで会場は満たされました。

そして、ブルゴーニュワインが出された、第一部の後のロビーは素晴らしい雰囲気だったのです。

チケット販売についても、花柳先生はお家元でしたので、
全て1万円の特別寄付者指定席のチケットだけで、芳名掲載は辞退します、ということでした。 が、舞をご覧になる一番いい席は、舞っている先生の目線が見える位置だそうですので、演奏を聴くベストな座席とは異なっていましたので、 ここは、当日、急遽指定席の位置を一部変更しました。

「初めての試みなので、どの座席がいいのかわからなかったんです。許して下さい。」と、
ぼくが先生、先生の奥様、先生のお弟子様の皆様に、頭を下げた時には、
「岡田君が一番大変なことよくわかってるよ。長い付き合いじゃないか、頭なんか下げるなよな。」と、先生は逆に暖かく励まして下さいました。

花柳衛与志(もりよし)先生は、若い頃、徳兵衛舞踊団の公演でアフリカのモロッコ、アルジェ等に行かれた際、子供達が悲惨な状態で、 ワクチンがないために目の前で亡くなっていることを目撃して以来、世の中の矛盾を感じておられたそうで、「ピアノと遊ぶ会」が チャリティ・コンサートを正式に始めることを会報でお知らせしてすぐに、

「岡田君の紹介してくれた大井君の作品でノーギャランティーで出演しましょう。」
とぼくにお電話を下さいました。

通常のイベントでは、

黒柳徹子さんの司会などよりも、花柳先生の舞のギャランティーの方が数段高いこと 等は自明のことでしたが、当日は、先生の舞にスポットライトをあてる照明係の方まで、先生が連れて来て下さっていました。

これは実はすごい事で、早代わりの衣装代も含めて、「ノーギャランティー」どころか、完全に先生の持ち出しでした。

でも、当日、スポットライトをあてる照明係の方に付き添って手伝った、「早稲田大学ピアノの会」幹事長で『ピアノと遊ぶ会』幹事をしていた 中野泰君は、リハーサルの際、

「照明って、スクリャービンやショパンなんかよりずっと楽しいな。オレ、はまってしまった。どうしよう。」と、若者らしい天真爛漫で純粋な感動を吐露して、 花柳先生もみんな大爆笑でした。従って、リハーサルは和気藹々とした雰囲気の中で、行なわれたのです。





こうして迎えた、1991年10月27日午後1時30分開演の本番。1週間ほど前に、700人の人達が集まるイベントのため、消防法の規定で、 警備員を置かないといけないとのことを急に言われ、ぼくの会社の部下のK君が慶應大学のラグビー部出身だったので、 彼の後輩を動員してもらい、無事に切り抜け、当日を迎えました。朝の10時にスタートしたリハーサル、昼食を取らなくてはならなかった のですが、日曜日の永田町の会場周辺には全くレストラン等ありませんでした。ところが、昼前に、50人分のサンドウィッチが、 サーッと差し入れられました。「キャピトル東急」からでした。えーーーっ、この前、マイケル・ジャクソンが来日した時に宿泊した 高級ホテルだよ。誰かわからないけど、みんなで感謝しながら、メチャクチャ美味しいサンドウィッチを食べていたら、雨が降り出してしまって、 音大ピアノ科の仲間達は、ガゼン沈んじゃったけど、ぼくは、『ピアノと遊ぶ会』副会長の宮田彰君、幹事の中野泰君等と話していました。

「よかったね、雨が降り出して。」

「そうだね。チケット前売りで席数の120%売っちゃったから、晴れたら座れない人がいたかもしれないからね。」

「これでちょうど満席くらいかな。」

・・・・・そして、予想通り、ピッタリ満席で演奏会はスタートしました。





演奏会会場の中も、普段の演奏会とは全然違って最高の状態でしたが、もっと素晴らしかったのは、休憩時間のロビーでした。 ぼくは、後半の出演だったので、楽屋にいたのですが、どんな雰囲気かだけ、ちょっと見に行ったら、外人が3分の1なのです。 あっちで英語、こっちでフランス語、といった状態で、みんなブルゴーニュワインを飲みながら、前半のトリの、大井君の曲に振付けて 舞って下さった花柳先生の日本舞踊に、ほとんどの人達が興奮していました。すごいなあ、こんなこと日本であるんだなあ。 と思っていたら、聴きに来て下さっていた、「ピアノと遊ぶ会」会員の東京芸大、桐朋、武蔵野、国立のピアノ科の仲間達がワイン 飲みながら、やって来ました。

「岡田さん、最高だよ。素晴らしい演奏会だ。こんなこと日本で出来るんだな。すごいよ。」

「みんなチケット買って来てくれて有難う。そんなに、客席の雰囲気いいの?」

「素晴らしいです。普段の演奏会と全然ちがいます。普通ではあり得ないくらい反応がいいです。 去年、ヨーロッパ行った時のオペラハウスと同じで、みんな楽しんでますよ。」

とりあえず、人がごった返して、英語とフランス語が飛び交っている、ロビーカウンターでワインを配ってくれている、 宮田君とN君、それと急遽応援してくれた、桐朋音大室内楽研究院の須江太郎君等に、

「お疲れ様。有難う。」と言って、楽屋に戻りました。





この頃、ぼくの中で鳴り続けていた「チャリティ受難曲」は、やっと止まりました。





本当にいろいろ大変だったけど、「チャリティ・コンサート」やってよかったなあ。

一番大変だったのは、チケット販売がスタートしてから、チケットを売ってくれている「ピアノと遊ぶ会」会員が、周囲から、

「『ピアノと遊ぶ会』の売名行為だ。」

「チャリティなんて偽善だ。」

「本当に世界の子供達のために尽くしたいんだったら、自分が、アフリカや中近東へ行けばいいだろう。」

等々、いろんなことを言われて、辛い目に合っているのを慰めることでした。そういう、わかったようなことを言う人達に限って、 何もやっていないことに気づいていないことが多いのです。今の自分に何か出来ることがあるのか、と考えた時、 アフリカや中近東にすぐに行ける人はいいけれども、行けない人だって、このような形で貢献するのは自由じゃないか、とぼくは思うのです。 また、「このチャリティ・コンサートは『ピアノと遊ぶ会』の売名行為だ。」と言う人達の大半が、日本の音楽大学ピアノ科を出たけれども、 さえない活動をしている人達であったことも事実でした。その5年前には、『ピアノと遊ぶ会』会員の、桐朋音大ピアノ科の有森直樹君が 日本音楽コンクール・ピアノ部門で優秀していましたので、既に、『ピアノと遊ぶ会』の名前はとどろいていて、売名しなくても有名だったのです。 また、こちらのエッセイをお読みいただくとご理解いただけます( → エッセイ『1986.10.10.P.M.』) が、有森君が『ピアノと遊ぶ会』に入会して来たのは、今回のチャリティ・コンサートの件でお会いした外務省のK氏との出会い同様、 全くの偶然でした。そのような偶然の出来事の集積から、何故か発展してしまった『ピアノと遊ぶ会』に対して、やっかみを言うことしか 出来ない人達がいることは、非常に残念なことでした。





ぼく達のグループ、ラヴィーヌ・カルテットは最後に、「来年もよろしく!」を演奏して正解でした。「蛍の光」の途中で、 チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲1番」の冒頭のピアノパートが出てくるところと、最後に、ハノンの1番が出てくるところでは、 客席は「クスクス」という笑い声でいっぱいになりました。

ぼくは演奏しながら、聴きに来れなかった、外務省のKさんに心の中で言っていました。

「今日の演奏会は全てVHSに収録していますから、必ず、ダビングして霞ヶ関に持って行きますね。今度、バーボン飲む時は、 見て下さい。スローバラードですよ。」と。





こうして、初めてのチャリティ・コンサートを無事に終えたら、有島先生が出演者、スタッフ全員、約50名を、「キャピトル東急」へ 連れて行って下さいました。夕食にはまだ早い時間でしたので、美味しいチーズケーキとお茶を飲んで、全て、ご馳走して下さいました。 ウィーンからこの日の出演のために早く帰国した、熊井善之君はぼくの隣で言っていました。「今日の演奏会、素晴らしかったな。 演奏会というよりも、愛に満ちた音楽会だった。出演出来てすごくよかった。」でも、たぶん、お昼のサンドウィッチも有島先生のご馳走 だったんだな、とぼくは思いましたが、先生は、もっぱら、「額田王」の万葉集の歌に曲をつけていることと、ぼくの作曲したピアノ曲の 「3つの小品」を是非、次のピアノと遊ぶ会で演奏したいというお話ばかりされていました。先生が今回の「チャリティ・コンサート」に ついて言いたかったことは、既に、当日の演奏会のプログラムに下記の素晴らしい文章で掲載済みでしたから、もう何も言わなくても よかったのでしょう。



「地球市民への道」
(1991.10.27.「第14回ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート」プログラムに掲載)

ピアノと遊ぶ会特別会員 有島重武


むかしから人間は戦争と平和とを繰り返してきたのだということですが、世界大戦という大がかりなものは、私たち20世紀のことで、 今後はもう各国不戦宣言をして21世紀を迎えたい。

私たちは、小さな惑星の上に暫くのあいだ住まわせてもらっている「地球市民」です。いわゆる「国際人」は、外国語をしゃべり、 外国事情に通じ、外国文化を学び、往来交流するのでしょうが、ひと味ちがって「地球市民」ともなれば、居住の地球に希望を託し、 責任を持つことになる。

少なくとも10年後に、みどりは増えているのか減っているのか、難民は増か減か、人殺しの道具は増か減か、ゴミの量、事故の数は どうか。「どうなるのかしら」ではなくて、「どうしたいか」の希望と、分に応じて行動を伴った責任ある貢献をしなければなるまい。 そんな実感が湧いてきている今日このごろではないでしょうか。

このたびは、肩肘はることもなく、人類共感の音楽三昧の「APA」「ピアノと遊ぶ会」の集いが、私たちをそのまま新しい「地球市民」へ の道につなげて下さっているように思います。

感謝しています。





アマチュアカメラマンの藤井さんが、いつも、「ピアノと遊ぶ会」「コンセール・コスモ」の演奏会収録を手弁当でして下さっていますが、 「第14回ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート 〜世界の子供達のために〜」の全収録VHSが藤井さんからぼくのところに届いたのは、 寄付、収支報告も終えた後、11月中旬でした。お願いしていた、外務省のKさんの分と2セット届きましたので、ぼくは、すぐに上京し、 今回は事前アポイントなしで、霞ヶ関にお邪魔しました。是非とも、手渡したいと思っていました。が、驚いたことに、彼は、その1週間前に、 ベルリン大使館に転勤されていました。外務省国際連合局社会教育課のM課長が出て来て下さって、ちょうど、明後日にベルリン大使館へ 送る便があるので、必ず送りますので、とのことで、言付けました。東西ドイツが統合してすぐの頃でした。この時期にベルリンへ行かれるとは、 やはり、Kさんは優れた人材なんだな。本当にKさんとの出会いがチャリティ・コンサートの開始という「ピアノと遊ぶ会」にとっての一大事を 全て決定して可能にくれました。

「どうかKさんによろしくお伝え下さい。あまり無理をせずに、自然体で頑張って下さい、とお伝え下さい。」

そう言って、ぼくは、外務省を後にしました。





外務省を出て上を見たら、色づき始めた木々の間から空が広がっていました。

Kさんは、あの空のずっと向こうのベルリンにいるんだな、と思って、ぼくは心の中でつぶやいていました。

「『ピアノと遊ぶ会』の仲間全員の、世界の子供達へのチャリティの気持ちを載せてプログラムの最後に掲載した次の引用。 この言葉の入ったぼくの大好きなリルケの詩、Kさんも大好きなんだっておっしゃってましたよね!」




お前に幼な時があったことを、この神々に忠実な、 名状しがたいひと時があったことを、
運命によってうち消されてはならない・・・・・リルケ・・・・・







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