プログラムへの広告掲載については、ずっと「ピアノと遊ぶ会」サロンコンサート会場として使わせていただいていた、『銀座・ピアノ・アート・サロン』『(社)PTNA』等がご協力いただけることになりました。
このあたりの手配と、ロビーでのワイン配布をしてくれる東京外国語大学ピアノの会会員の協力依頼などは、当時、
「早稲田大学ピアノの会」幹事長をやりながら、『ピアノと遊ぶ会』幹事でもあった、中野泰君等、大学生の若手が頑張ってくれました。
ですから、彼ら大学生には、一般席2000円のチケットの販売のみで十分だからと言い、1万円以上の「特別寄付者指定席」については、
宮田君とぼくの二人で何とかしよう、という覚悟でした。
こうして、全ての手配を終えて、宝塚に帰った後、外務省から、後援名義認可書が届きました。そして、ぼくは、またまた気に入って
しまったんです、外務省のことが。なぜなら、その宛名が、ぼくの個人名になっていたからなのです。日本ユニセフ協会のものもそうでしたが、
「ピアノと遊ぶ会」御中というのが、日本の習慣では普通なのですが、外務省は、その団体の代表者個人名に全ての文書を出していることが、
その時わかりました。なるほどなあ、アメリカの大統領に文書出す時も、「・・・・・大統領」と出すに決まっているから、
外交ではこういうやり方が常識なんだな。でも、この文書はさすがに重いものでした。なぜなら全ての責任は、ぼく個人にかかってくるの
ですから。予算書で提出した金額の寄付が出来なかったら、ぼくが個人的に負担しないといけないっていうことだな、と思いました。
早速、有島先生に、外交官のKさんのルートで後援名義がOKだったので、国会議員の先生方に動いていただかなくても大丈夫な由、
ご連絡しました。
こうして、本格的なPRに入りました。まず、外務省後援のコンサートということになりましたので、「ピアノと遊ぶ会」会員の勤務していた
会社の社内報でかなりなPRを打って下さいました。APA(エイパ・日本アマチュア演奏家協会)においては、西村会長(西村会長は、
元「そごうデパート」の会長で、明治生まれの素晴らしいアマチュアチェロ奏者でした。ぼくがAPAに入会した23歳の頃から、ものすごく
可愛がって下さっていましたが、この時も大変なバックアップをして下さいました。)を筆頭に、会報でのPR、理事会、幹事会でのPRを
打って下さいました。もちろん「ピアノと遊ぶ会」会報でのPRも功を奏し、関西でもかなりな販売になりました。また、外務省経由での大使館へ
のPRから、外国の人達がたくさん買って下さったようです。
結果、チケットについては、全て9月末に前売りで120%完売、代金は全て、銀行振込で完了しました。特に、宮田君の言い出した、
「特別寄付者指定席」が、50枚以上売れたこと、それも、3万円から5万円が主流だったことには、びっくりしましたが、やはり、法人、
団体名での購入が多かったこと、特に、プログラムの「特別寄付者指定席ご購入者ご芳名」の欄に、日本アマチュア演奏家協会所属の
各室内楽例会、弦楽四重奏団、東京都内市民オーケストラの名前がズラーーーっと並んだことは壮観でした。
もちろん、これまでのピアノソロに特化しない「ピアノと遊ぶ会」の活動が全て反映されたわけですが、
これで、外国の人達にも、文化面で東京が引けを取らない点を、十分納得していただけるだろうと思いました。
早速、(社)日本ユニセフ協会のM氏には、
「これで当日が集中豪雨になっても大丈夫ですよ。本当に先に寄付を振り込みましょうか?」
と電話を入れましたが、
「当日の会場にチャリティ募金箱を置いてもらいたいので、その募金箱の中のお金も含めた収支報告でいいです。」
とのことで、募金箱を送ってきました。
で、またまた、驚いたことに、その募金箱には、何と、募金箱の蓋をするシールがついていて、シールを貼って、(社)日本ユニセフ協会に箱ごとお返しするようになっていたのです。
「こんなシール貼っちゃったら、中のお金が数えられないじゃないですか。」と、またぼくはM氏に文句の電話を入れました。
既にこの頃、(社)日本ユニセフ協会と『ピアノと遊ぶ会』の立場は逆転していました。
すると、(社)日本ユニセフ協会のM氏は、
「そのシールは、『ユニセフ』『チャリティ』という言葉を使って、お金を横取りしようという浅ましい人達、『偽者チャリティ』の対策上
つけてあるシールなので、『ピアノと遊ぶ会』様では、中身を出して収支報告に加えてもらえればいいですよ。」
とのことでした。
この時、最初に、(社)日本ユニセフ協会にぼくが電話した時の、門前払いに近い対応の理由が、いつの時代にもいる悪い奴への
防波堤であったということがわかりました。
さらに重要なことは、マスコミ、芸能界をバックに、『ユニセフ』『チャリティ』の名を使って、寄付を集めている、黒柳徹子さんの方の
寄付振込み口座が第一勧業銀行の黒柳徹子さんの個人名義の口座になっている理由も全てわかりました。なぜなら、当たり前の
ことだけど、(社)日本ユニセフ協会という非課税法人を通せば、寄付金に贈与税はかからないのだけれども、黒柳徹子さんの
個人名義口座を通せば、寄付金に全て贈与税がかかりますから、日本政府による、明らかな差別化が行なわれていること、
日本政府として公式に認めている寄付ルートが、(社)日本ユニセフ協会であることも全てわかり、謎が解けました。そして、マスコミ、
芸能界の黒柳徹子さんを使った横暴なやり方に、外務省も(社)日本ユニセフ協会も頭を抱えているのだということもわかり、
ぼくは「ケッ!」とハキ気がしてしまったのです。
そう言えば、この前、どっかのTV番組に出演した、黒柳徹子さんが、「寄付金に贈与税がかかるなんてひどい話ですわ。」と涙を流して
いましたが、あれも演技だったのです。「シャボン玉ホリデー」に出てた頃の、若かりし頃の黒柳徹子さんの一生懸命で純粋な演技は、
本当に素晴らしいものだっただけに、人間、年をとって、どれだけ『国連大使』などという肩書きを手にしても、初心を忘れちゃダメですよね。
その意味では、今回の「チャリティ・コンサート」総合プロデューサーをしたぼくにとっては、黒柳徹子さんの歳の取り方は最悪なものの一つとして、
「偉大な反面教師」としての価値しか残りませんでした。TV局は、全てを視聴率で判断していて「徹子の部屋」はその点で、スポンサーも
ついてうまくいっているのでしょう。
でも、全ての物事について、一番の強みは、若さです。余命いくばくもないことでしょうから、申し訳ないことだけれども、黒柳徹子さんは
20世紀に置き去りにされればよい程度の人物です。
有島先生ルートもたくさんのチケット販売にご協力下さいました。事前に、元衆議院議員がドビュッシーを弾くというPRをマスコミを使って
やったらどうか、という幹事もいましたが、これは、有島先生に対して大変に失礼なことだから、とぼくが押さえ込み、且、その幹事には
ぼくが直接注意しました。
マスコミを会場に入れることは絶対に避けたかったのです。出演前で緊張している人、出演後ホッとしている人、全てについて、
あつかましい傍若無人なインタビューをぶつけられることほどひどいことはありません。このあたりは、その後勃発した「阪神大震災」への
テレビ局の頭の相当悪い若いパッパラパーのインタビュアーの報道を見れば、皆様はご納得いただけるはずだと思います。
第一、芸能界入りを目指している人など、今回の出演者には一人もいなかったのです。自分の芸術や芸をお金に変えることに何の
躊躇もない人達は、絶対にギャランティーを要求するに決まっていますから、最初から「ピアノと遊ぶ会」「日本アマチュア演奏家協会」
共催の「チャリティ・コンサート」のコンセプトとは一致しません。
従って、現状、過去の既得権にあぐらをかいているだけの黒柳徹子さんの司会など、最初から門前払いに決まっていたのです。
有島先生がステージでドビュッシーを弾くのは初めてでした。が、演奏された、当日のドビュッシーの「子供の領分」の『ゴリウォーグの
ケークウォーク』。独特の間の取り方も去ることながら、右手に再現するテーマを1オクターブ上下で交互に弾いて、ダイナミスムを
調節する等の即興性に満ちたものだったので、特に、東大、早稲田、慶應等の、各大学内のピアノサークルに所属していたアマチュアの
『ピアノと遊ぶ会』会員の学生達は全員腰を抜かして感動していました。
そして、「大正デモクラシーってすごいな。」 と、大評判になったことは言う間でもありません。
それから、ぼくのプロデュースで今回初めて導入した、日本舞踊の舞とピアノのデュオについては、今回のプログラムの目玉でしたので、
是非書いておかなくてはなりません。すなわち、花柳衛与志(もりよし)先生の演目です。早稲田大学文学部を卒業した大井泉君(男です〔笑〕)は、
当時、サラリーマンでしたが、「早稲田大学ピアノの会」幹事長をしていた中野泰君の一代前の、「早稲田大学ピアノの会」の幹事長でした。
彼の作曲した「松の緑」(三つの主題)による幻想曲(1984)は、彼のおばあ様が三味線の名手で、小さい頃から「松の緑」を聴かされていたので、
その思い出のつまったモチーフと、沖縄音階とモダニズムを合体させて書いたピアノ曲です。曲は、「松の緑」で始まり、中間部が「元禄花見踊り」、
第三部が「阿波踊り」でした。その3年前のピアノと遊ぶ会での初演当時から、ぼくはとても気に入った作品だったので、スコアをコピーさせてもらって、
正直なところ、こういう曲はぼくには書けないな、と彼の才能には参っていました。
一方の、花柳先生とぼくは、ぼくがまだ25歳の頃、新宿京王プラザホテル7階のサウナで出会いました。
その日は、「ピアノと遊ぶ会」例会の1週間前で、ぼくは、会社の方でもらった割引券で(割引がないとこんな高級サウナには
当時行けなかったのです〔笑〕)ピアノの練習でクタクタになって腱鞘炎防止に一番効果のあるサウナから出て、休んでいた時でした。
そして、その1週間後の「ピアノと遊ぶ会」の例会で「早稲田大学ピアノの会」ナンバーワンのアマチュアピアニストの金子一朗君が、
ラヴェルの「夜のガスパール」を弾くか「クープランの墓」を弾くか迷っていたので(全くぜいたくな悩みですよね)、どっちでもいいよ、
とそこの休憩室の公衆電話から電話を入れてリクライニングシートに戻ったら、テーブルの上にビールが置いてありました。
となりにいた、ぼくよりもちょっと年上の方が「どうぞ、喉渇いたでしょう。」とご馳走して下さったのです。そして、
「ピアノなさるんですか? 今、ラヴェルのお話しているの盗み聞きしちゃってごめんなさいね。」と自己紹介して下さいました。
この方が、花柳衛与志(もりよし)先生で、創作舞踊第一人者の花柳徳兵衛先生の一番弟子でいらっしゃったのです。
先生は、国立劇場で舞った後、サウナで休んでいる所でした。で、ぼくが作曲をしていると言った頃から先生の目が輝き始めました。
そして、「来週、渋谷東急劇場で、1ヵ月後、国立劇場で私が舞いますので。」と、招待券を2枚ずつ、4枚も下さいました。
「気に入ったものがあったら、あなたの得意な音素材で曲を書いて見て下さい。そして、うまく行くようだったら、
私が振付けて舞いましょう。」と言って下さったのです。
ぼくはびっくりしました。でも、ともかくその2つの会にぼくは行きました。そして、初めて「鷺娘」に感動し、これを26歳の時、
「舞とフルート、ティンパニ、ピアノのための『鷺娘』OP.70」という作品にしました。先生は非常に気に入って下さり、振り付けまで
考えて下さったのですが、どう考えても、これを初演出来る会場がありませんでした。また、その内やるつもりです。が、しかし、
先生の奥様が藤間流の名取で、且、ピアニストであったことから、三鷹の練習スタジオ併設のご邸宅には、当時ぼくの住んでいた
小金井が近かったので、何回も遊びに行きましたし、奥様はぼくの作曲した「ヴァイオリンとピアノのためのファンタジーOP.58」が大好きで、
『あなたは、天才よ。』といつも、夕食をご馳走しながら励まして下さり、本当にお世話になりっぱなしの状況だったのです。
で、ぼくが、大阪に転勤になった時、どうしても、この大井君の作品の「松の緑」(三つの主題)による幻想曲(1984)を花柳先生に聴いて
欲しかったので、ご紹介しました。この時、ぼくは、やっぱり一生懸命動いていたら神様は助けてくれるんだと確信しました。
何故なら、大井泉君の自宅は三鷹で、花柳先生のご近所だったのです。先生も、この大井君の作品を気に入って下さって、ぼくが大阪に
転勤している間、大井君が、いろいろと原曲を舞に合わせるために変更すること等とリハーサルは、十分に出来ていました。
従って、このデュオについては、このチャリティコンサートの翌年の、大阪市長と福島区長の依頼で開催した「弟4回大阪市福島区民文化
の集い」においても再演していただくよう、ぼくの方で、セットしました。が、このチャリティ・コンサートの日が初演でした。
後述のように、当日の聴衆のかなりな部分が、外国の方だったのです。
特に、エンディングは最高でした。早変わりの後、松のお扇子を7枚も使い、この作品の最後のダブルグリッサンドの所では、
松づくしを演出し、先生が松の木になった瞬間、外人の聴衆は全員スタンディングオベーション、ブラヴォーの叫びで会場は満たされました。
そして、ブルゴーニュワインが出された、第一部の後のロビーは素晴らしい雰囲気だったのです。
チケット販売についても、花柳先生はお家元でしたので、
全て1万円の特別寄付者指定席のチケットだけで、芳名掲載は辞退します、ということでした。
が、舞をご覧になる一番いい席は、舞っている先生の目線が見える位置だそうですので、演奏を聴くベストな座席とは異なっていましたので、
ここは、当日、急遽指定席の位置を一部変更しました。
「初めての試みなので、どの座席がいいのかわからなかったんです。許して下さい。」と、
ぼくが先生、先生の奥様、先生のお弟子様の皆様に、頭を下げた時には、
「岡田君が一番大変なことよくわかってるよ。長い付き合いじゃないか、頭なんか下げるなよな。」と、先生は逆に暖かく励まして下さいました。
花柳衛与志(もりよし)先生は、若い頃、徳兵衛舞踊団の公演でアフリカのモロッコ、アルジェ等に行かれた際、子供達が悲惨な状態で、
ワクチンがないために目の前で亡くなっていることを目撃して以来、世の中の矛盾を感じておられたそうで、「ピアノと遊ぶ会」が
チャリティ・コンサートを正式に始めることを会報でお知らせしてすぐに、
「岡田君の紹介してくれた大井君の作品でノーギャランティーで出演しましょう。」
とぼくにお電話を下さいました。
通常のイベントでは、
黒柳徹子さんの司会などよりも、花柳先生の舞のギャランティーの方が数段高いこと
等は自明のことでしたが、当日は、先生の舞にスポットライトをあてる照明係の方まで、先生が連れて来て下さっていました。
これは実はすごい事で、早代わりの衣装代も含めて、「ノーギャランティー」どころか、完全に先生の持ち出しでした。
でも、当日、スポットライトをあてる照明係の方に付き添って手伝った、「早稲田大学ピアノの会」幹事長で『ピアノと遊ぶ会』幹事をしていた
中野泰君は、リハーサルの際、
「照明って、スクリャービンやショパンなんかよりずっと楽しいな。オレ、はまってしまった。どうしよう。」と、若者らしい天真爛漫で純粋な感動を吐露して、
花柳先生もみんな大爆笑でした。従って、リハーサルは和気藹々とした雰囲気の中で、行なわれたのです。
こうして迎えた、1991年10月27日午後1時30分開演の本番。1週間ほど前に、700人の人達が集まるイベントのため、消防法の規定で、
警備員を置かないといけないとのことを急に言われ、ぼくの会社の部下のK君が慶應大学のラグビー部出身だったので、
彼の後輩を動員してもらい、無事に切り抜け、当日を迎えました。朝の10時にスタートしたリハーサル、昼食を取らなくてはならなかった
のですが、日曜日の永田町の会場周辺には全くレストラン等ありませんでした。ところが、昼前に、50人分のサンドウィッチが、
サーッと差し入れられました。「キャピトル東急」からでした。えーーーっ、この前、マイケル・ジャクソンが来日した時に宿泊した
高級ホテルだよ。誰かわからないけど、みんなで感謝しながら、メチャクチャ美味しいサンドウィッチを食べていたら、雨が降り出してしまって、
音大ピアノ科の仲間達は、ガゼン沈んじゃったけど、ぼくは、『ピアノと遊ぶ会』副会長の宮田彰君、幹事の中野泰君等と話していました。
「よかったね、雨が降り出して。」
「そうだね。チケット前売りで席数の120%売っちゃったから、晴れたら座れない人がいたかもしれないからね。」
「これでちょうど満席くらいかな。」
・・・・・そして、予想通り、ピッタリ満席で演奏会はスタートしました。
演奏会会場の中も、普段の演奏会とは全然違って最高の状態でしたが、もっと素晴らしかったのは、休憩時間のロビーでした。
ぼくは、後半の出演だったので、楽屋にいたのですが、どんな雰囲気かだけ、ちょっと見に行ったら、外人が3分の1なのです。
あっちで英語、こっちでフランス語、といった状態で、みんなブルゴーニュワインを飲みながら、前半のトリの、大井君の曲に振付けて
舞って下さった花柳先生の日本舞踊に、ほとんどの人達が興奮していました。すごいなあ、こんなこと日本であるんだなあ。
と思っていたら、聴きに来て下さっていた、「ピアノと遊ぶ会」会員の東京芸大、桐朋、武蔵野、国立のピアノ科の仲間達がワイン
飲みながら、やって来ました。
「岡田さん、最高だよ。素晴らしい演奏会だ。こんなこと日本で出来るんだな。すごいよ。」
「みんなチケット買って来てくれて有難う。そんなに、客席の雰囲気いいの?」
「素晴らしいです。普段の演奏会と全然ちがいます。普通ではあり得ないくらい反応がいいです。
去年、ヨーロッパ行った時のオペラハウスと同じで、みんな楽しんでますよ。」
とりあえず、人がごった返して、英語とフランス語が飛び交っている、ロビーカウンターでワインを配ってくれている、
宮田君とN君、それと急遽応援してくれた、桐朋音大室内楽研究院の須江太郎君等に、
「お疲れ様。有難う。」と言って、楽屋に戻りました。
この頃、ぼくの中で鳴り続けていた「チャリティ受難曲」は、やっと止まりました。
本当にいろいろ大変だったけど、「チャリティ・コンサート」やってよかったなあ。
一番大変だったのは、チケット販売がスタートしてから、チケットを売ってくれている「ピアノと遊ぶ会」会員が、周囲から、
「『ピアノと遊ぶ会』の売名行為だ。」
「チャリティなんて偽善だ。」
「本当に世界の子供達のために尽くしたいんだったら、自分が、アフリカや中近東へ行けばいいだろう。」
等々、いろんなことを言われて、辛い目に合っているのを慰めることでした。そういう、わかったようなことを言う人達に限って、
何もやっていないことに気づいていないことが多いのです。今の自分に何か出来ることがあるのか、と考えた時、
アフリカや中近東にすぐに行ける人はいいけれども、行けない人だって、このような形で貢献するのは自由じゃないか、とぼくは思うのです。
また、「このチャリティ・コンサートは『ピアノと遊ぶ会』の売名行為だ。」と言う人達の大半が、日本の音楽大学ピアノ科を出たけれども、
さえない活動をしている人達であったことも事実でした。その5年前には、『ピアノと遊ぶ会』会員の、桐朋音大ピアノ科の有森直樹君が
日本音楽コンクール・ピアノ部門で優秀していましたので、既に、『ピアノと遊ぶ会』の名前はとどろいていて、売名しなくても有名だったのです。
また、こちらのエッセイをお読みいただくとご理解いただけます( →
エッセイ『1986.10.10.P.M.』)
が、有森君が『ピアノと遊ぶ会』に入会して来たのは、今回のチャリティ・コンサートの件でお会いした外務省のK氏との出会い同様、
全くの偶然でした。そのような偶然の出来事の集積から、何故か発展してしまった『ピアノと遊ぶ会』に対して、やっかみを言うことしか
出来ない人達がいることは、非常に残念なことでした。
ぼく達のグループ、ラヴィーヌ・カルテットは最後に、「来年もよろしく!」を演奏して正解でした。「蛍の光」の途中で、
チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲1番」の冒頭のピアノパートが出てくるところと、最後に、ハノンの1番が出てくるところでは、
客席は「クスクス」という笑い声でいっぱいになりました。
ぼくは演奏しながら、聴きに来れなかった、外務省のKさんに心の中で言っていました。
「今日の演奏会は全てVHSに収録していますから、必ず、ダビングして霞ヶ関に持って行きますね。今度、バーボン飲む時は、
見て下さい。スローバラードですよ。」と。
こうして、初めてのチャリティ・コンサートを無事に終えたら、有島先生が出演者、スタッフ全員、約50名を、「キャピトル東急」へ
連れて行って下さいました。夕食にはまだ早い時間でしたので、美味しいチーズケーキとお茶を飲んで、全て、ご馳走して下さいました。
ウィーンからこの日の出演のために早く帰国した、熊井善之君はぼくの隣で言っていました。「今日の演奏会、素晴らしかったな。
演奏会というよりも、愛に満ちた音楽会だった。出演出来てすごくよかった。」でも、たぶん、お昼のサンドウィッチも有島先生のご馳走
だったんだな、とぼくは思いましたが、先生は、もっぱら、「額田王」の万葉集の歌に曲をつけていることと、ぼくの作曲したピアノ曲の
「3つの小品」を是非、次のピアノと遊ぶ会で演奏したいというお話ばかりされていました。先生が今回の「チャリティ・コンサート」に
ついて言いたかったことは、既に、当日の演奏会のプログラムに下記の素晴らしい文章で掲載済みでしたから、もう何も言わなくても
よかったのでしょう。
「地球市民への道」
(1991.10.27.「第14回ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート」プログラムに掲載)
ピアノと遊ぶ会特別会員 有島重武
むかしから人間は戦争と平和とを繰り返してきたのだということですが、世界大戦という大がかりなものは、私たち20世紀のことで、
今後はもう各国不戦宣言をして21世紀を迎えたい。
私たちは、小さな惑星の上に暫くのあいだ住まわせてもらっている「地球市民」です。いわゆる「国際人」は、外国語をしゃべり、
外国事情に通じ、外国文化を学び、往来交流するのでしょうが、ひと味ちがって「地球市民」ともなれば、居住の地球に希望を託し、
責任を持つことになる。
少なくとも10年後に、みどりは増えているのか減っているのか、難民は増か減か、人殺しの道具は増か減か、ゴミの量、事故の数は
どうか。「どうなるのかしら」ではなくて、「どうしたいか」の希望と、分に応じて行動を伴った責任ある貢献をしなければなるまい。
そんな実感が湧いてきている今日このごろではないでしょうか。
このたびは、肩肘はることもなく、人類共感の音楽三昧の「APA」「ピアノと遊ぶ会」の集いが、私たちをそのまま新しい「地球市民」へ
の道につなげて下さっているように思います。
感謝しています。
アマチュアカメラマンの藤井さんが、いつも、「ピアノと遊ぶ会」「コンセール・コスモ」の演奏会収録を手弁当でして下さっていますが、
「第14回ピアノと遊ぶ会・チャリティ・コンサート 〜世界の子供達のために〜」の全収録VHSが藤井さんからぼくのところに届いたのは、
寄付、収支報告も終えた後、11月中旬でした。お願いしていた、外務省のKさんの分と2セット届きましたので、ぼくは、すぐに上京し、
今回は事前アポイントなしで、霞ヶ関にお邪魔しました。是非とも、手渡したいと思っていました。が、驚いたことに、彼は、その1週間前に、
ベルリン大使館に転勤されていました。外務省国際連合局社会教育課のM課長が出て来て下さって、ちょうど、明後日にベルリン大使館へ
送る便があるので、必ず送りますので、とのことで、言付けました。東西ドイツが統合してすぐの頃でした。この時期にベルリンへ行かれるとは、
やはり、Kさんは優れた人材なんだな。本当にKさんとの出会いがチャリティ・コンサートの開始という「ピアノと遊ぶ会」にとっての一大事を
全て決定して可能にくれました。
「どうかKさんによろしくお伝え下さい。あまり無理をせずに、自然体で頑張って下さい、とお伝え下さい。」
そう言って、ぼくは、外務省を後にしました。
外務省を出て上を見たら、色づき始めた木々の間から空が広がっていました。
Kさんは、あの空のずっと向こうのベルリンにいるんだな、と思って、ぼくは心の中でつぶやいていました。
「『ピアノと遊ぶ会』の仲間全員の、世界の子供達へのチャリティの気持ちを載せてプログラムの最後に掲載した次の引用。
この言葉の入ったぼくの大好きなリルケの詩、Kさんも大好きなんだっておっしゃってましたよね!」
お前に幼な時があったことを、この神々に忠実な、
名状しがたいひと時があったことを、
運命によってうち消されてはならない・・・・・リルケ・・・・・
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