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『失われた時のために』

あなたが『勝つ』時、必ず『負ける』人がいる
負けた人を思いやれない人は生きていても仕方ない
『勝ち組』だ『負け組』だと騒ぐことの何と空しいことか・・・・・



元、住友信託銀行調査役補  岡田克彦


(2005.2.6.ぼくの大好きな先輩と後輩に感謝を込めて執筆)



BGM;フォーレ作曲;「ピアノ四重奏 No.2」第3楽章

(ピアノ;岡田克彦、ヴァイオリン;竹内恵梨子、
ヴィオラ;納富継宣、チェロ;藤田裕)


〔1986.6.26. 原宿パウゼ「マ・ノン・トロッポの会」ライブ収録 〕





ラヴィーヌ・カルテットの活躍写真から

カザルスホールにて

1988.2.21.カザルスホール
第1回アマチュア室内楽フェスティバル
フォーレ「ピアノ四重奏 No.1 OP.15」
〔ラヴィーヌ・カルテットでの出演〕風景
(大正海上文化財団撮影)


関連エッセイ; 『ネルケンの思い出』・・・フォーレの室内楽・・・



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1980年のことでした。1979年に早稲田大学政経学部を卒業して入社した『住友信託銀行』で東京都内店の全員配属を1年経過 して赴任した『松山支店』(第一次オイルショックが終わった当時、 『住友信託銀行』は、日本国内の金融機関の中では、総資金量において、21位程度のまだまだ中小の金融機関でした。)で初めて 個人マーケットの信託受信営業をスタートした22歳当時、ぼくにOJT指導をして下さった際お世話になった2年先輩だった25歳の 上司からまず叩き込まれたことは、次の3点でした。



「1億円の貸付信託の新規取引を取る目標の評価について、 1つの相手との1件1億円の取引を獲得 する営業マンと、100件の相手と1件100万円の取引を獲得する営業マンでは、後者の方が明らかに将来の夢においてはるかに 評価が高いこと」



「全てのマーケットの信託受信において、当社は、新規取引金額という業容目標、新規取引開始先の件数という 基盤目標、コスト意識を持った利益に貢献するような取引先を増やせたかどうかをチェックする利益目標の3本立てになって いること」



「岡田君に部下が出来る3年後までに、俺をこの3本立ての全ての目標において追い抜くことが岡田君の 使命なんだということ」




当時、彼は半期(半年)で6億円の5年貸付信託(後に個人についてはビッグという名称になった商品)と1億円程度の金銭信託 (後に個人についてはヒットという名称になった商品)等の業容目標を必達していました。ぼくは当初、半年で1人で6億円もの 5年貸付信託を新規取引で集めることなんて出来るんだろうか、とその金額の大きさにばかり注意が行きました。が、彼は、

「三菱も三井もほぼ同程度の1人の業容目標なんだからやれるはずさ。」

「基盤目標が一番重視されるんだ。件数勝負だってこと忘れるなよ。」

「唯一、野村證券だけは1人で半期10億もの業容目標を達成しているから、野村に友人がいるのなら、親しくしろ。」

「営業ってのは、情報量の多い奴が強いんだ。だから、趣味を大切にして社外人脈を作るんだぜ。困ったことがあったらいつ だって相談に乗るからガンバレよ。」

「ただし、3つの目標を全部達成しなかったらぶっ殺すぞ。」


と、彼にとって初めての部下だったぼくを、メチャクチャ厳しく叱咤激励し、指導、育成してくれました。

そして、一番肝心なことは、目標達成云々は、給与、ボーナスなんかの金額とは全く無関係だったのですが、必ず、人間として 人格的に素晴らしいものを持っていて尊敬できる一番身近な先輩をマンツーマンによる新入社員のOJT指導者、つまり、 クルト・レヴィンの言う「bigE」の環境として準備するという完璧な配慮をしていたことでした。「住友信託銀行」では、 こういうOJT指導における、部下が上司を追い抜き続ける歴史と伝統が大正の創業時からずっと営々と続いて発展している ことに、ぼくは気が遠くなるような思いでした。



そして、彼が教えてくれた最大の教訓は、

『この世でせっかく出会った人達は、例え自分が打ち負かした敵であっても友人になった 方が、人生は楽しいんだ。俺はいつもそうしてるけど、お前もよかったらそうやってみろ。』

の一言だったのですが、これが、ぼくの個人、法人新規開拓営業の仕事とプライベート面の生き方の基本姿勢になりました。 彼はラグビー部出身のサッパリした気分のいい男でしたが、ぼくの作曲とピアノという趣味を一番尊敬してくれていて、 よく一緒に飲みに行ったものです。

その当時、初めてのボーナスで買ったアップライトピアノをグランドピアノに買い換えて、広い松山の独身寮の自分の部屋に 置いていて、ほとんど毎日弾いて いました。先輩の部屋は斜め向かいでしたが、ぼくがショパンを弾き始めるといつもぼくの部屋に遊びに来て、じっとぼくの 演奏する仕草を見つめていました。ある日、「先輩はどの曲がお好きですか?」と、ぼくが得意だったショパンのワルツ集19曲 を全部順番に弾いて見せて感想を聞いたところ、先輩のお気に入りは「ワルツ OP.70-3 変ニ長調(遺作)」でした。 ぼくは唖然としました。というのも、この遺作の作品はショパンのワルツ集ではぼくの一番大好きな作品だったからなのですが、 先輩はこの中間部で変ト長調になって左手がスケールとトリルを担当するところの内声の動きが、大変に気に入っていました。

「そこの所がいいな。たまんなくいいな。」
という体育会系らしいストレートな感想をいただけたことは、本当に嬉しかった。 そこはぼくの一番大好きなパッセージだったからなのですが、
「そこんところを弾いてる時の岡田君の仕草が一番いいんだよ。」
とのことで、ぼくは心の内面を先輩に見透かされたような気分になってしまい、この先輩の感受性にはもう完全に参った。 この先輩の言うことには絶対に従おう、と惚れてしまいました。考えてみると、作曲とピアノという、ラグビーとは全く接点の ない趣味を持っていたぼくをOJT指導することは大変だったと思いますが、この点は、先輩の方からぼくの趣味に近づいて来て 下さった、全ての人間に対して優しく好奇心が旺盛で、視野の広い人でした。



このショパンの「ワルツ OP.70-3 変ニ長調」が、二人の決定的な感受性の合致点になったのです。

先輩は、このショパンの「ワルツ OP.70-3 変ニ長調」と、後、当時ぼくが時々演奏していて気に入ってくれていたフォーレ 作曲の「ノクチュルヌ No.4」以外のクラシック音楽の作品名については全く知りませんでしたし、ぼくに質問がない限り、 ぼくからクラシック音楽の作品名のご案内なんて一切しませんでした。そんな「知識面」の枝葉末節情報なんて会社の仕事とは 全く関係なかったし、先輩はラグビーが好きだったのです。そして、それ以上に、知識白紙の状態で演奏現場で聴いていただける ことが一番大切なことで、その点、音楽を「わかる」のではなく「感じる」ような聴き方としてはベストの環境設定だった のですから。



でも、ショパンの19曲もあるワルツ集の中で「ワルツ OP.70-3 変ニ長調」だけを知っていて愛好している人は、それなりに ショパンのワルツ集を勉強した音楽家には、ものすごく高い音楽性を認められることは間違いありません。この 「ワルツ OP.70-3 変ニ長調」は、若い頃のショパンの作品では群を抜いた名曲で、有名な「小犬のワルツ OP.64-1」や 「嬰ハ短調のワルツ OP.64-2」なんかより、はるかに傑作なのです。

このように、『感受性』の接点は『知識面』の接点よりもはるかに強烈なものなのです。



だから、ある日「岡田君、頼みがあるんだけど・・・・・。」
と、彼の結婚式披露宴での全行程のBGMとしてピアノ演奏 を頼まれた時は本当に嬉しかった。

ホテルでの彼の結婚式披露宴の前夜、彼の要望で、
「岡田君、俺の独身最後の夜は一緒に泊まってくれよ。いろんな思い出を語り合おうぜ。」
と、ツインルームで遅くまでダベって泊まったことを、今でも懐かしく覚えています。



ぼくの23歳当時作曲のピアノ曲「ラプソディーNo.1」OP.37(失われた時のために)・・・会社の先輩に献呈・・・は、この時の披露宴の真ん中で、 ショパン、ドビュッシー、フォーレ等のピアノ曲の他、ジャズ等のアレンジ物をBGMとして演奏する中で、彼に捧げたいと 思って作曲、初演した作品です。この作品の『失われた時のために』という副題の『失われた時』とは、尊敬する先輩が、 初めて営業で外勤に出たぼくと一緒に取引先へ行って下さった時のことで、「あの時は永遠に二度と戻っては来ないけれど、 ぼくはあの時のことを一生忘れない。だから、先輩も忘れないで下さい。」という思いを込めた副題でした。 先輩に献呈した『失われた時のために』というぼくの作品は、先輩の好きだったショパンの「ワルツ OP.70-3 変ニ長調」 と全く同じ、複合三部形式で作りました。最低限の献呈者へのマナーでした。献呈者の先輩には、 ぼくの思いを感じて欲しかったからです。あたり前のことだけど、音楽は、聴衆に伝わって初めて価値が出るのです。

さすがにこのスコアを受け取った先輩は、マジに照れていました(笑)。

あんなに厳しかったのに、こんなに部下のぼくの前で本気で照れ臭さを隠さない彼をますます好きになりました。



が、ぼくの OJT指導の局面でも、彼はぼくを、顔を真っ赤にして本気で叱ってくれ、ぼくが目標を達成した時や、彼を少しでも抜いた時には 自分のことのように心底喜んでくれました。

「太く短く」をモットーに生きていて、熱血漢とは彼のような人なんだとぼくは思いました。こういう先輩に恵まれると、 3年後にぼくが部下を持った時には、本気で指導しなくちゃいけない、それにはSD(自己啓発)で自分を磨かないといけない、 と気づかせられたものです。



「住友信託銀行」の感受性豊かな素晴らしい先輩は関西学院大学ラグビー部出身でした。 この人との出会いが、ぼくにとっては、生まれて初めての体育会系の人との、あまりにも強烈な出会いでした。



学歴は文系の場合、営業実績面、知識面では、全く関係ありません。が、感受性の部分で学歴は非常に有効な判断基準に なります。そして、感受性が部下指導の局面では絶大な威力を発揮するのです。豊かな感受性がお金で買えないものだと いうことは、全く自明のことです。




さて、この『失われた時のために』という副題の「ラプソディーNo.1」OP.37は、スペイン風のノスタルジックなピアノ小品 なので、サロンコンサートでも時々演奏しています。が、この副題の本当の意味を知らない聴衆の皆様は、作曲した 23歳当時のぼくが大変な失恋をした思い出だと誤解して下さるので、本当の意味は説明しないことにしています。音楽作品の 内容は言葉では絶対表現不可能でよいのです(笑)。でも、ピアノに向かってこの作品を演奏する度に、ぼくは作品を 献呈し、先輩がマジに照れていた遠いあの日もまた、最近のぼくにとっては『失われた時』なのでとてもノスタルジックな 気分に浸れるのです。このように世俗的な出来事でも、思い出という時間のフィルターを通せば、芸術作品に昇華出来、 ぼくの大切な作品になっています。




先輩との思い出は尽きないのですが、母と祖母の介護のために四国高松にぼくがUターンした後、バブル崩壊後の長期に渡る低金 利と不景気やビッグバンが大手都市銀行と信託銀行を直撃したため、かつてのぼくの上司、同僚、後輩の多くからは、グループ 会社に出向した(実質的には首切りですね。)、という話しか伝わって来ませんでした。ですから、例え、現在の「住友信託銀行」 が「UFJ信託銀行」を買収する力があることで高い評価を受けていても、その状況に至るまでにリストラされた知人がいっぱい いる、かつての従業員だったぼくは、「住友信託銀行」で働いていたことをちっとも誇りには思えませんでした。



金融機関はメーカーと違って、 工場等の設備投資は不要です。唯一の財産は、その中で働いている従業員という人間でしたから、その人間を鍛える研修や OJT指導の整備がなされていたのは当然なのです。だからこそ、前述のように、バブルのはるか前に、ぼくがOJT指導を受けた 先輩との、上司と部下、先輩と後輩という人間関係は、「感受性」を共有する、という絶対にお金では評価出来ないデリケート なものまで含んでいて、それが企業文化の基本になっていたのです。しかし、バブル崩壊後の状況下では、金融機関は給与水準の 高い中高年に差しかかった人を切り捨てる一方で、給与水準の低い新卒採用を続ける以外、生き残る方法はなかったのです。 ですが、だからと言って、人を様々な理由をこじつけたり分社化なんて大義名分で首にするなんてことをやっていいわけがあり ません。人の集合体は工場のような物体の集合体じゃなく、熱いハートを持っています。不良債権というお金の処理のために、 本体が生き残るために出向という大義名分で、これまで会社の発展のために少なからず頑張って来た中高年に差しかかった人を 切った、というのは、まさしく、不良債権を処理するために、人をお金で人身売買した、ということなのです。



ぼくは、この点だけは、絶対に許せないのです。今でも、こんなことを平気でやった、人事部に相当する、 大阪の本店総括部と、東京の東京人事部の部長、担当役員は、全員、赤い血の流れていない冷血動物で、もしかしたら 爬虫類に属する人の面をかぶった化け物だと思っていますが、こういう悪賢い資質の人達が役員に出世するという『住友信託銀行』 の体質が一番問題なのです。そして、そうしたリストラの成果物が、「UFJ信託銀行」を買収するお金なのだから、こんな あくどい会社はないと断言出来ます。




最近話題になっている、「ライブドア」と「楽天」、つまり、堀江社長と三木谷社長という2人のIT長者の対決は、 ですから、最初から堀江社長が正しいことは決まっています。理由は簡単で、三木谷社長が「三井住友銀行」の 頭取と仲がいいからです。遠い昔から、悪者は悪者同士結託するのです。時代劇の一場面のように「三井住友銀行」の 頭取が「三木谷、お前も、悪(ワル)よのう。」(爆)なんて言う場面が、「三井住友銀行」の頭取と三木谷社長の間ではきっと あったのでしょう。それに、「三井住友銀行」の頭取は初めて出会った時に、三木谷社長が深々とお辞儀したことが 気に入ったのだそうですが、何て野蛮で低能な気に入り方でしょう。古今東西の全ての企業において、お辞儀の角度を45度以上で 深々とするのは、ご迷惑をかけたお客様にお詫びする時であることは決まっています。お二人とも、新入社員研修をもう一度 受けて、CS(顧客満足)マインドを叩き直せばよいレヴェルですね(爆)。三木谷社長が深々とお辞儀しなくてはならない のは、楽天市場に出店して下さっているお客様にお詫びしないといけない時であって、「三井住友銀行」の頭取へのお辞儀の 角度は45度で十分です。「三井住友銀行」の頭取に45度以上の深々としたお辞儀をしたことは、三木谷社長ご自身が、この人を 利用してやろうとたくらんでいる悪賢さと卑屈さを表出しているだけだということにお気づきになるべきです。楽天球団の 「アドバイザリーボード」に加わっている、社会人マナー教育の大家でいらっしゃる「ザ・アール」の奥谷社長様にでも教えて もらいなさい(爆)。



さらに付け加えるなら、『クリムゾン』がハーバード大学の色だなんて日本ではどうでもよいことです。『クリムゾン』と似たり 寄ったりの色は、日本では、ぼくの卒業した早稲田大学の色であると認知されております。『グローバルスタンダートに生きてる』 だなんて笑わせるのじゃないよ。『グローバルスタンダート』がどんなものかなんて、『グローバルスタンダート』でなかった 時代の日本の経済状況を経験したことのない三木谷社長のような若造になんか、絶対に実感不可能です。明るいものは 暗いところから見るときに一番ディーテルが明確になるのですから。

また、経営者として新たな活動をスタートする際、いちいち仮説を立てないといけないなんて、笑止千万。三木谷社長の頭の 回転がのろまなことを象徴しているだけです。そして、仮説を立てることを「楽天」の従業員に対して押し付けているなんて、 もう、どーしようもない自己満足に浸っているだけの最悪の経営者だとすぐにわかりますよ。髭を蓄えたり剃ったりしている ようですが、はっきり申し上げて、もともとのお顔が堀江社長と違って下品なので、どっちも似合っていませんよ。 大体『ハーバード』で勉強出来たのは、興銀がお金を出してくれたお陰のようですから、世渡りは上手なのでしょう。が、それは それだけのこと。3歳の頃からずっとピアノを11歳の頃からずっと作曲を仕事の傍らでライフワークとしてやって来たぼくから見れば、 大した出来事でもありません。



そして、三木谷社長によると、地に足のついた「泥臭い営業」は「ライブドア」には出来ていないのだそうですが、ぼくが見る ところ、地に足がついているのはどう見ても、自然体でブクブク太っている堀江社長の方ですよ(笑)。大体、 「興銀」のM&Aの営業手法はハッタリと「興銀」の名刺の威力を中心に展開されていましたが、三木谷社長はかつて、これを やっていたのでしょう。あの「興銀」のやり方が「泥臭い営業」と対極にあったことは、「信託銀行」に勤務していた人ならば 誰でも知っております。

でも、さすがに興銀出身の三木谷社長は、ハッタリが得意ですね。

「楽天は泥臭い営業が得意だ」なんて史上最高のハッタリ。ウェブ上で「泥臭い営業」なんて絶対に出来ないし、三木谷社長 が興銀でなさっていたM&Aの営業なんて、興銀の営業の中で最も「泥臭くない営業」ですよ。金融機関の営業の中で最も 「泥臭い営業」は、信託銀行なら『財務相談課』、都市銀行や地方銀行なら『得意先係』(個人と、宗教法人等の融資関係のない 非課税法人等のお金を集める営業)です。ですから、「楽天」が本気で「泥臭い営業」をやりたいのならば、三木谷社長がかつて 働いていた「興銀」に営業をアウトソーシングしましょう。でも、「興銀」はもうないみたいだから、無理ですね(爆)。




それはさておき、「住友信託銀行」が「UFJ信託銀行」を買収して日本の信託銀行のリーディングカンパニーになるようなこと、 すなわち日本の恥をまた一つ増やすことになってしまうことは、絶対に「東京三菱銀行」が総力を上げて阻止すべきです。 幸いにも、「東京三菱銀行」が「三井住友銀行」の思惑を押さえ、「UFJ信託銀行」が「住友信託銀行」に買収されるような ことはあり得ない状況になっていますが、そうなった方が、「UFJ信託銀行」で働いている、 以前、社外交流で親しくしていた、元「東洋信託銀行」の従業員の皆様にとっては幸せなことです。「UFJ信託銀行」の 買収によって「住友信託銀行」が日本No.1の信託銀行になることを「住友信託銀行」が取引先に事前PRしていたようですが、 このプレセールスで大風呂敷を広げるやり方は、まさに、ぼくがかつて勤務していた「住友信託銀行」の大阪界隈でのやり方で、 このやり方に問題があるのです。ですから、例え「UFJ」からの白紙撤回が青天の霹靂であったとしても「UFJ」に対して 責任追及する前に、こういう、これまでのプレセールスのやり方への反省が先にあってしかるべきです。



それに、それ以前の問題として、かつて、ぼくが「住友信託銀行」で働いていた当時から、「住友銀行」と「住友信託銀行」は 同じ住友グループなのに、非常に仲が悪かった。この仲の悪さは、昭和20年代初期、不景気で全ての信託銀行が潰れそう になった時、「三菱銀行」は「三菱信託銀行」を、「三井銀行」は「三井信託銀行」を、「富士銀行」は「安田信託銀行」を、 「三和銀行」は「東洋信託銀行」を、「東海銀行」は「中央信託銀行」を助けたのですが、「住友銀行」だけは 「住友信託銀行」を吸収しようとしたことに端を発していました。このような客観的な歴史的事実は絶対に消えるものじゃない。 「住友信託銀行」は「住友銀行」を恨み続けることでモチベートを高めて発展して来たのですから、そんな恨みは絶対に 消えないのです。




だから「『住友信託銀行』は一匹狼的に発展して来た勝ち組だ」

という、日経新聞等の記事を読んだぼくは爆笑しました。

とんでもないこと!

「住友信託銀行」は一匹狼の勝ち組なんてカッコよいものではない。

かつては、「住友銀行」と「住友信託銀行」の仲の悪さから、同じ「住友グループ」各社の融資取引先の取り合いまでして 営業推進せざるを得なかっただけなのです。

さらに前述の「爬虫類に属する人の面をかぶった化け物」が、「住友信託銀行」の役員に出世したため、「プロミス」等の 「住友信託銀行」のグループ各社に、給与水準の高い、中高年に差しかかった人達を出向させるという大義名分でリストラし、 その人件費削減で得たお金で不良債権を処理出来たお陰で生き残れ、「UFJ信託銀行」を買収するお金まで貯蓄出来ただけ なのです。



ところが、そのお金で「UFJ信託銀行」を買収出来ない状況になってしまったので、慌てて、「住友銀行」 との仲をよくしただけのことです。

『白水会』(住友財閥グループの会社社長が住友本家の住友さんへ事業進捗状況を報告する、毎週水曜日にやっている会合)で、 最も重視される席順において「住友信託銀行社長」の席が恨み多き「住友銀行頭取」の席よりも上座になる等あり得ないの で、一過性の仲の良さなんてすぐになくなり、仲良くするようなことは、未来永劫あり得ません。

もちろん、「三井住友銀行」は実質「住友銀行」ですよ。三井が冒頭に来ているのは「住友銀行」になった時、封筒等に印刷され た「三井住友銀行」の「三井」の部分を修正液のホワイトで消して、経費削減が出来るための、これまた、お金を貯める準備である こと等は、一部の関係者はみんな知っていることです。



このように、「住友グループ」の金融機関はどちらも全て、お金、お金、お金で動いて来た、拝金主義の大阪出身の、コスト意識 旺盛なだけの叩き上げ財閥の「住友グループ」の中心なので、「東京三菱」に勝てるはずなんて絶対にないのです。
理由は非常に簡単で、「東京三菱」に比べて社風が悪いから。
そして、「住友グループ」の社風は、江戸時代の創業当時から出来ていますから、一朝一夕に直せるものじゃありません。

ぼくは、1994年というラッキーな時期に、親の介護のために「住友信託銀行」を辞めて四国高松にUターン出来たので、あたり前 のことですが年収は激減し、幸福に関する価値観を変換しなくては前向きに生きて行けなかったけれども、それをクリアーして、 人間的な生活を謳歌出来ましたので、よかったと思っています。




が、そんなこんなで、ウェブ時代が本格化した後も、「住友信託銀行」のホームページを見る気なんて、全くなかったのですが、 先日、ひょんなことで「住友信託銀行」のホームページを見てしまったぼくは、その支店一覧を見ていてびっくりしました。

というのも、あの大好きだった、ぼくが入社直後OJT指導してくれた先輩の名前が、某支店長名に出ていて、支店長に昇格 していたからでした。今、どうしているのか全くわからないけれども、大変な愛妻家で子煩悩だった先輩が、今も 「住友信託銀行」の本体にいるということは、本当に嬉しいことでした。「感受性」豊かな先輩のことだから、リストラされて ゆく上司、同僚、部下を数多く見送る度に、きっと、深く傷ついたことでしょう。でも、どうかどうか、頑張って欲しいなあ、 と心から願っています。先輩のような「感受性」豊かな「住友信託銀行」の従業員は、もう、先輩以外、一人も本体に残って いないことは、ぼくが高松で受け取った様々な情報から、ほぼ間違いないだろうと思っています。



いつでも、かつてのぼくの尊敬する先輩とは電話でコンタクトは簡単に取れます。そして、先輩がぼくに開口一番言うだろう ことも十分予測できます。でも、ぼくは絶対にコンタクトしないだろう、と思います。何故って、先輩がぼくにOJT指導して 下さった、バブルのはるか前の、あの時代、あの当時の状況は、もう、どんなことしたって永久に戻って来ない『失われた時』 になってしまったからなのです。そして、こんなことは、コンタクトを取って語り合う機会を持たなくたって、先輩が一番 よくわかって下さっていることも、間違いないことだからなのです。多くの人達がグループ会社への、本体には絶対に 戻って来れない、出向や分社化という大義名分でリストラされたことを、今さら先輩と語ったとしても、不満や愚痴を言い合う、 下らない対話の時間になってしまい、『失われた時』を汚すことになってしまうだけだけど、先輩は優しいから、語る機会を 取ってくれることは間違いありません。だから、ぼくは絶対にコンタクトは取らないのです。





ぼくが先輩と二人で語り合える最後になった時、バッタリ東京で出くわした時のことは、今でも鮮明に覚えています。

ぼくの『住友信託銀行』入社時、ぼくをOJT指導して下さった先輩は、その後、ぼくが東京の新宿支店の法人新規開拓チームに 配属になった後、大阪の本店営業部に配属されて、愛する奥様と一緒に大阪の社宅に住んでいたので、大阪の桃山台の方に研修 でぼくが出張した際には必ず遊びに行っていました。が、その後数年間、お互いに連絡を取れないでいた間に、彼は東京営業部 に転勤になって融資を担当していました。でも、ぼくがそれを全く知らなかった頃のこと、日曜日の午後に東京でバッタリ 出くわしたのです。

場所は、ぼくといつも合奏していたヴァイオリニストの竹内さんとチャリティコンサートをやって、彼女の自宅に立ち寄った 後帰ろうと、東京の某私鉄の駅に向かう途中にあったマクドナルドの店内から先輩が駆け出して来た歩道の上でした。



あの、松山支店時代の若造のぼくに怒鳴ってくれていた懐かしい懐かしい野太い声でした。




「岡田じゃないか。久しぶりだな。元気か?」

「えーーーっ先輩じゃないですか。いったいどうしたのですか?」

「どうしたもこうしたもあるかよ。お前なぁ・・・、お前ついにでかしたな。」

「でかしたって、何のことですか。」

「よしよし、ついに会社やめてプロの音楽家になったんだな。お前はやっぱ偉いよ。オレが思った通り、住友信託になんかいる 器じゃなかったんだな。」

「何言ってるんですか。先輩、ぼくは今も住友信託で働いていますよ。」

「うそだろ。じゃあ、何だよその格好は。」

先輩はぼくの着ていた、真っ白の、ベイズリー柄のラメ入りタキシードと真っ赤な蝶ネクタイをじっと見つめていました。とりあ えず、マクドナルドに入って、一緒にいた彼の奥様と生まれていたまだ小さい2人のお子様にご挨拶してから、ぼくはチャリティ コンサートに出演した後の状況でそのままの衣装で帰宅中だということを説明しました。

「先輩、今日は家族サービスですか? すっかり子煩悩なお父様になられて、幸せそうで何よりです。 ぼくはまだ独身だから、羨ましいですよ。」

「まあな、オレはお前の音楽と違って、趣味のラグビーは日常的には続けられんからな。でも、今日、こんな所で 出くわすなんて、お前とは縁があるんだな。」

「でもさあ、ひどいよ先輩、ぼくが住友信託を辞めた方がいいなんて思ってるなんてさあ。」

「そんなこと思ってなんかいねえよ。すまん。さっきさぁ、ウィンドー見てた家内が、『大変よ。岡田さんがタキシード 着て歩いてるわよ。ついにプロになったんだわ。』って言うもんだから慌てて飛び出してった訳さ。本当にすまん。 でも、お前の音楽活動がかなり広がってること、いつも社内報や会社案内で見て知ってるぜ。東京に配属になってよかったなあ。 いろいろやってるんだろ。」

「そうですね。社長(信託銀行のトップは頭取ではなく社長なのです。)が桜井さんに変わってから、人事部の社外活動、 特に、芸術活動に対する理解が深まったので、やりやすくなりましたよ。でも、先輩が、大阪から東京にいらっしゃってる とは知りませんですみませんでした。だけど出会い頭にいきなり『ついに会社辞めて』だもんなあ。参っちゃうよ ・・・・・。先輩・・・・・あのーーー立ち入ったこと聞いてもいいですか?」

「おう、お前とは、独身寮も一緒で、公私に渡って仲良くやってたからな。で、何だ『立ち入ったこと』って?」

「出会い頭に、『会社辞めて』って言ってたから、ちょっと心配になったんだけど。先輩、もしかして、東京での住友信託での 勤務にご不満があるんじゃないですか。ぼくが何でもご相談に乗りますよ。ぼくの方が東京勤務は長いんだから。」

「このバカ野郎! 相変わらず生意気な奴だな。ハハハ・・(爆)。でも心配には及ばんよ。オイ、でもお前、タキシード 似合ってるぜ。結婚式ではオレもタキシード着てキャンドルサービスしたけど、そんなもん普段は絶対着ないぜ。 でも、あの時のキャンドルサービスの時、お前がBGMで弾いてくれた曲はよかったな。披露宴の全行程はVHS収録してる から、オレ達の結婚記念日には家内と一緒にいつも見てるんだぜ。」

「そうですか有難うございます。でも懐かしいなあ。あのキャンドルサービスのところの演奏曲目は、 J.S.バッハ作曲でヘス編曲の『主よ人の望みの喜びよ』っていう曲だったのですよ。」

「ヘスかヒスか知らんけど(笑)いい曲だな。それと、お前の得意なショパンのあの『ワルツ』を弾いてくれた時も いいな。あれはやっぱし素晴らしい曲だと思うよ。途中で弾いてくれた、オレのために書いて献呈してくれた 『失われた時のために』も気分のいい曲で、オレにくれたのはすごく嬉しいし、お前の演奏のカセットはずっと聴いてるけど、 オレも家内もピアノなんて弾かないし、ピアニストの友人なんて一人もいないんだぜ。楽譜もらって大事にしてるけど、 いったいどうすりゃいいんだ。」

「ぼくは、先輩があの楽譜を受け取って喜んでくれ、大事にして下さっていて、『カセット』収録のものをたまに聴いて 下さっているだけで十分幸せですよ。あのカセットにはショパンの『変ニ長調のワルツ』を収録したものも入れてますから。」

「それでいいのか? 東京にはピアニストの仲間いっぱいいるんだろうからそういう人に献呈した方が、お前のPRになるぜ。」

「ピアニスト仲間で献呈してあげたいって感じる程の『感受性』の豊かな人達には献呈してますよ。大体『感受性』って仕事の 世界の人でも音楽の世界の人でもみんな持ってるんだもの。第一、ぼくはアマチュアですよ。音楽の世界での自己PRになんか あんまり興味ないですから。でも、先輩の『感受性』はすごいです。尊敬してますよ。ぼくがピアノ弾いているの見て、 胸にグサッと来るような鋭いこと、いつも指摘してくれたから、ぼくはゾクゾクしてたんですよ。」(爆)

「ピアノ弾くの生まれて初めて目の前で見て、オレが感じたことを素直に言っただけなんだけど、そんな風に思ってたのか。 お前は絶対に上司のオレをおだてたりゴマ擦ったりしない奴だったからなぁ・・・マジにそうだったんだろうな。嬉しいぜ。 でもなあ、お前そんなことオレの目の前で真顔で言うなよな。本当に照れちゃうだろ、バーカ。」(爆)

「PRと言えば、会社の中と、取引先での自己PRの仕方は、先輩がぼくに教えてくれたじゃないですか。ぼくはそれを ちょっとばかり奥ゆかしく変換して今もやってますけど(笑)、これだって先輩がいなかったら、全く出来なかったしね ・・・・・。敢えて言えば、ぼくの不得手だった、自信過剰になることと、楽天的な推進力で前向きに営業や人生に 立ち向かうことは先輩に教わったかな?」(爆)

「おいおい、お前に、そんなこと教えた覚えなんてないぞ。」(爆)

「でも、ぼくは先輩の動き方を見てて、見習おうって思ったんですよ。これも部下指導の一部ですよ、先輩の場合は特別だから。 そんなことよりさあ、先輩、実は、今ぼくには、新入社員の優秀な後輩がいるんですけど、彼はサッカー部出身の体育会系なん です。彼を見てて、先輩が体育会系でなかった入社直後のぼくを指導するのが大変だったろうなって思ってますよ。 きっと出来の悪い奴だったでしょう。」

「いやいや、お前は、いつもオレにずっと付いて来てくれて、目標も随分早く達成してくれたよ。第一、お客さんに好かれて たよな。それよりな、オレ、随分本気で叱ってたから怖かったろう。」(爆)

「うん。」(爆)

「ハハハ・・。でもなあ、お前のことオレが一番気に入ったのは、お前が入社1年目の『集団マル退』(年度末に出る地方 公務員の退職金を集める活動を「住友信託銀行」では『集団マル退』という愛称で呼んでいました。)で支店内ダントツ1位 になって、活動の終わった5月に本社から専務が来て、財務相談課の担当者全員とディスカッションした時だよ。お前さぁ、 専務から『どうして、岡田君は、「集団マル退」で、一件のお客様からほとんど丸取りで効率よく、こんなに集められたの ですか? その秘訣は何なのか、みんなに教えて下さい。情報は共有化しましょう。』って聞かれた時、いったい何て答えたか 覚えてるか?」

「さぁーーー、何て言ったか、全然覚えてないですよ。」

「お前はこう言ったんだぜ。」



『新規開拓営業の秘訣は全て“運”だと思います。今期の集団マル退活動でのお客様との出会いに おいて、第一印象、自宅での奥様、ご子息様との面会のタイミング、職場でのご主人様との面会のタイミング、実質的な 実権者の奥様と、ご子息様、ご主人様の性格、全てが偶然にも素晴らしかった事・・・・等々、全てにおいて、私は“運”が良 かったのです。
実は、先日、今期の集団マル退の結果が、当店で2番だった、同期入社のN君と独身寮で、競合他社との駆け引きに勝って 丸取りできた理由を話し合ってて、一番同意出来たのは、“運”がよかったことです。金利が一緒なのですから、 秘訣は、それこそ、紙一重の“運”です。
今期、いい結果が出せなかった人達も、来期は、紙一重の“運”で、いい結果が出せるかもしれないと思います。

ですから、情報の共有化の文言は、〔全ては“運”〕でよいと思います。
専務のお力で、全店でこれを共有化して、本部は半期の業容目標にばかり拘るのじゃなく、各支店の財務相談課の 営業マンが、次の支店に転勤になるまでの、約三年間の中期目標による、新規飛込みの集団マル退の業容目標で、 その営業マンの能力を判断するようになれば、人事考課上も、素晴らしいと思います。

専務がいつか、社長になられる日を、私は期待しています。

入社1年目で、生意気なことばかり言って、すみません。どうか、若気の至りと、ご容赦下さい。』


(※ この時の専務が、後に社長になった、桜井さんでした。)





「専務はじめ、みんな爆笑してたぜ。あの団塊の世代のどーしようも ない支店長は怒ってたけどな。」

「えーーーっ、ぼくそんなこと言いましたっけ。」

「オレは、後で、あの支店長から『今期の「集団マル退」で当店No.1の岡田君があんなことを専務の前で言ったから、私の顔は 丸つぶれだ。君はいったいどういう部下指導をしてるんだ。』って随分叱られたぜ。でも、お前の言ってること、絶対に正し かったんだよ。専務が来たって何があったって、正論を平気でサラッと言ってくれる男に成長したお前のこと、気に入ったぜ。 こいつはもうオレの手を離れたな、大丈夫だって思ったよ。だからな、今までオレが部下を育てた中では、一番楽しかったぜ。」

「先輩、ぼくのために支店長に叱られたんですか。そんなことあったんだ。ごめんなさい。」

「まぁ、オレも上にゴマ擦る奴大嫌いだから、あんな支店長の顔どうなってもいいんだけどな(笑)。で、お前の後輩はサッカー 部出身か。ラグビー部出身とはちょっと違うけど、わからないことがあったらいつでも相談しろ。これは命令だ。 で、そいつはどこの大学出身だ?」

「彼は一橋大学出身ですよ。でも感受性の豊かな人でぼくの作品やピアノ演奏に興味持ってくれてます。」

「一橋(いっぱし)か。優秀なんだろうな。お前のピアノに興味持ってるんだったら、きっとそれで仲良くなれるさ。大事に してやれよ。世の中は順ぐりにそうなってるんだぞ。」





この、入社直後のぼくの後輩が、後に住友信託銀行ロサンゼルス支店に転勤後、 帰国して、東京の「住友信託銀行企業情報部」に配属されてM&Aを担当した、ぼくが自作 「10のフラグメント OP.63」 を献呈した、 ぼくの後輩では一番優秀だった『N君』でした。




ぼくが『住友信託銀行』在勤中で、一番ヤル気をなくしていたのは『新宿支店』にいた一時期でした。その主な原因は、Y支店長 がぼくの休日のプライベートタイムの音楽活動にまで口をはさみ、音楽活動をやめて、日曜日も仕事のことばかり考えろ、という 実に非人間的な生活をぼくに強要したためでした。あたり前でしたが、そんなこと言われて、ぼくも黙っちゃいませんでした。



ある日の支店長室で、次の対話がY支店長とぼくの間で繰り広げられ、ぼくは完璧にキレてしまい、決定的に対立しました。

彼は、入室してソファーにすわったぼくにいきなり怒鳴り出しました。

「岡田君、聞くところによると、君は日曜日にまだピアノをやってるそうだな。そういう人間は会社への帰属意識が足りんから いかんのだ。もし、日曜日にピアノをやっているのなら、直ちにやめなさい。」

「支店長、私の日曜日の行動をいったい誰にお聞きになられたのですか。」

「そんなことはどうでもよい。私は新宿支店長だぞ。新宿支店の全従業員が何をしているかなんて情報は、全て自然に集まって 来るんだ。独身寮に住んでいる君の日曜日の行動なんか簡単にわかることだ。それより、私の質問に答えろ。やってるのか やってないのか。」

「ずっと、毎週日曜日には、私は趣味の音楽活動をやっております。」

「ハハハ・・・、ついに白状したな。直ちにやめなさい。」

「白状・・・・・このお部屋は支店長室でございます。いつから拷問部屋になったのでございますか。Yさんが新宿支店長に赴任 していらっしゃったからでございますね。」

「そんなことはどうでもよい。さっさと支店長の私の命令に従うのか従わないのか言え。」

「支店長、お言葉を返すようですが、私は日曜日には自分のやりたいことをやる権利がございます。」

「何だと。日曜日でも仕事のことが気になって仕方ないほど、仕事には打ち込まないといかんのだ。私はずっとそうやって来た んだ。私は岡田君が私の軍門に降るかどうかを聞いておるのだ。」

「軍門に降る・・・・・(笑)。今は戦国時代ではございません。が、さようでございますね、支店長がもし、諸葛孔明ならば、 私は喜んで軍門に降りましょう。」

「君の屁理屈を聞く気はないよ。」

「私は屁理屈を申し上げているのではございません。『日曜日には自分のやりたいことをやる権利がある』という法的に正しい ことを申し上げているだけです。」

「黙れ、黙れ、支店長の私の言うことが『新宿支店』では全ての規則である。」

「お客様とのお付合いのための麻雀とゴルフ以外のご自身で磨き上げたご趣味もなく、精神的に豊かな日曜日も過ごされずに これまで頑張って来られた支店長ご自身の生き方が『新宿支店』の規則である等ということは私、初耳でございます。」

「だから今日、岡田君に支店長室に来てもらったのだ。岡田君の日曜日の行動まで監視していた私から、日曜日の勝手な行動は 絶対に許さんという私の命令を伝えるためだ。私が支店長をしている新宿支店の全従業員の中で、私の知らんことを日曜日に やっているのは岡田君だけで、それが非常に気に入らんのだ。」

「監視・・・・・支店長は私の日曜日の行動まで監視して、本部の人事部長に気に入られようと思っておられるのですか。 でしたら、それは無駄なことだと思います。人事部長は、趣味と社外人脈を大切に生きて欲しいとおっしゃっておられました から。それに私は、私の日曜日の行動を支店長に気に入っていただきたい等、一度も思ったことはございません。」

「それがいかんのだ。第一、人事部長が何様だと言うのか、君は。本部の人事部長と支店長が同格であることくらい君も知って いるだろう。そういう考え方が、会社への帰属意識の薄いことを象徴しているのだ。」



確かに、信託銀行は、都市銀行等と違って、職能資格制度においては、本部の部長と支店長は全て同格でした。が、 私が言いたかったことは、本部にいる人事部長の方が、Y支店長よりもはるかに感受性が豊かであることだったのですが、この 支店長はそういう手ぬるい反論ではダメな方で、既に形骸化していた職能資格制度にこだわっている人間、つまり、上に胡麻 を擦るタイプの人間だとわかりましたので、私は後述のような、このような上に胡麻を擦る人間に有効なだけの実に下らない 最終兵器を使ってこの支店長の人間性を叩き潰すことをこの時点で、既に決めていました。



「日曜日の過ごし方で帰属意識を推し量るなど、言語道断だと私は思います。それとも、支店長は『新宿支店』で勤務している 全員の日曜日の過ごし方を『監視』することが、無上の喜びでいらっしゃるのですか。」

「何回言えば、君は支店長の私の言うことがわかるのだ。ともかく、岡田君の日曜日の勝手な行動は、私が支店長である限り、 絶対許さんぞ。」

「支店長が仕事熱心でいらっしゃることはよくわかりました。が、日曜日の行動の仕方まで拘束するような権利は支店長には ございませんので、そのような無茶な命令に私は絶対に従えません。」

「従えないだと。従えないのならば、岡田君には鉄槌を下すことになるぞ。覚悟しろ。」(この時、Y支店長はテーブルに置いて あったクリスタルの灰皿をつかんで私の頭上に振りかざしていました。)

「その灰皿は鉄槌ではなく、『新宿支店』の備品でございます。そのように激昂なさいましても、問題は解決いたしません。」



しばらくして、Y支店長が静かになったので、完全にキレてこの支店長に反論するだけでなく完璧にその人間性を叩き潰す手順を 決定済みだった私は、静かに、慇懃無礼な口調で、話題を急に飛躍させるという営業トークで時々使っていた手法を切り口にして、 ゆっくりと反論と客観的な状況説明により支店長の人間性を完璧に叩き潰すお話をスタートさせました。

「ところで、Y支店長は『住友信託銀行』にご入社されて何年お仕事をなさっておられるのですか。」

「24年になるな。」

「さようでございますか。では、支店長が私を説得することは不可能だと思われます。私は3歳の時からピアノ、11歳の時から 作曲をやっておりますので、私のピアノのキャリアは24年、作曲のキャリアは16年になります。『住友信託』のキャリアが 24年程度の支店長には、ピアノのキャリアが24年、作曲のキャリアが16年の私にとっての音楽は理解の外にあると思われます。」

「何と無礼なことを言う奴だ。支店長の私に逆らうのか・・・・・・・・・・。」

「逆らってはおりません。『私が支店長である限り許さん』とおっしゃられましても、支店長の『住友信託』のキャリア が24年程度では、ピアノのキャリアが24年、作曲のキャリアが16年の私は承服いたしかねるという客観的事実を申し上げており ます。また、幼少期の音楽のキャリアは、大変失礼ではございますが、支店長の『住友信託』でのキャリア等よりははるかに密度 が濃いこと等を勘案いたしますと、私を怒鳴りつけて、このキャリアの差が簡単に埋まると思っておられるのだとしたら、全く お話にならないということでございます。人にはそれぞれこれまでの人生で培って来たものがあって価値観はそれぞれ異なって おります。しかも、私は、現在、休日しか、音楽活動を出来ない状況にあるのですから、それを奪ってしまおうという支店長の ご意向に、私は絶対に従えない、というか、仮に音楽をやめようと思ったとしても、私の場合は、作曲の原点になるモチーフが、 ある日突然、自然に浮かんでしまいますのでいたしかたございません。」

「君は、作曲をするのか・・・・・・・・・・。」

「ご存知でいらっしゃらなかったのですね。支店長の監視能力も表層しか見えない程度とお見受けいたしました。しかし、私は ピアノ演奏も作曲活動同様、私の大切な音楽活動という趣味でございます。先程のお話をうかがいまして、私は支店長に、私に とっての音楽の価値観をご理解いただこうとか私の作品を聴いていただきたいなどという期待は一切しないことに決めさせてい ただきましたので、悪しからずご了承下さい。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「この週末も『日本アマチュア演奏家協会』で自作ピアノ演奏のスケジュールが入っております。それから申し遅れました が来月から私、『日本アマチュア演奏家協会』の理事に就任することになりました。従業員数7000人の『住友信託銀行』に比べ れば、『日本アマチュア演奏家協会』なんて2000人程度のちっぽけな団体でございますが、皆様のご推薦でそのトップの一人に 加えさせていただけることになったようでございます。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「『日本アマチュア演奏家協会』の会長は、アマチュアチェロ奏者の、元『そごうデパート』会長の西村様でいらっしゃいます。 西村様は明治生まれの素晴らしいアマチュア音楽家でいらっしゃいますが、アマチュアピアノ奏者の『住友信託銀行』前社長の 牧野様とも懇意になさっておられるそうです。私が今回『日本アマチュア演奏家協会』理事に推薦された背景には、西村会長の ご意向もあったやに承っております。はるか昔、西村会長のチェロと合奏いたしました際、私が『住友信託銀行』に入社したこと を西村会長にご報告した時、西村会長は『岡田君は牧野君のところに入ったんだね。よかったね。』と天真爛漫におっしゃいまし たが、後でその意味がわかってびっくりしたことがございます。が、私も来月から『日本アマチュア演奏家協会』の理事として、 幹部の一人に加わりますので、『住友信託銀行』が芸術的水準の高い企業であると周囲に認められるような音楽活動を展開しなくては ならないと思っております。Y支店長のような前近代的な方が私の働いている『住友信託銀行新宿支店』の支店長でいらっしゃる こと等は、『日本アマチュア演奏家協会』の理事会では、絶対にディスクローズ出来なくなってしまいました。大変に残念なこと でございます。」

「君は、牧野相談役を知っているのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「あたり前でございます。彼もアマチュアピアニストの一人ですから。でも、それがどうかいたしましたか? 現在仕事に従事 しておられる人事部長すら恐れない支店長でいらっしゃるのに、社長ご勇退後の牧野様が何か影響でもございますのですか?  音楽の世界は会社組織のようなタテ社会ではなくヨコ社会ですので、牧野様もそちらでの知人です。音楽の人脈を仕事に利用しよ うなんて浅ましいことは私は一切考えておりません。が、作曲や室内楽演奏等をやっていると、自然に利用してしまっていること も多々あることは仕方のないことだと思っているだけです。ともかく音楽を理解しようともなさらない支店長には全く関係のない 世界の出来事でございます。ただし、先ほどの灰皿を私の頭上に振りかざすような暴力的な行為をしてまで、日曜日の私の音楽 活動をやめろ、等という無茶な命令を私に押しつけるのでございましたら、私には、法律になんか頼らなくても、支店長に対して、 やるべきことを実行出来る音楽人脈のあることを、あらかじめご案内させていただいただけでございます。私の趣味 の音楽人脈を私が使うことにならないよう、今後は私に対する言動には十分ご留意下さい。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「ただ、私は一つだけ気になることがございます。私の後から『住友信託銀行』に入社して来るかもしれない、音楽を趣味に 生きているかもしれない後輩達にも、支店長は私におっしゃったことと同様の言動をなさり、日曜日の音楽活動をやめさせよう となさるに違いございませんので、私はここで、来月就任する『日本アマチュア演奏家協会』の理事、並びに作曲家として、 支店長に事前にご案内させていただきます。」

「何だと、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「私が『日本アマチュア演奏家協会』の理事で作曲家である限り、将来に渡って、支店長のような前近代的な方には『日本アマ チュア演奏家協会』にかかわる全てのアマチュア音楽家と接点を持つこと、並びに、古今東西の音楽作品で最も傑作であるところ のJ.S.バッハ作曲の『マタイ受難曲』をお聴きになることを禁止させていただきます。」

「ン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「何かご質問がございましたらどうぞおっしゃって下さい。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

「では、お話も収束したようでございますので、失礼いたします。私はYさんが新宿支店長である限り、『拷問部屋』に なりすまった、このような『支店長室』のような汚らわしい場所には絶対に二度と参りませんので、どうかご安心下さい。」





まあ、今にして思うと、ぼくもまだ若かったのでものすごいことを目上の人に向かって平気で言ったものでした(笑)が、 Y支店長も怒鳴りつける相手を間違え、慇懃無礼に言い返されて黙らされた不幸な方だと思いました(笑)。当時から、浄土真宗 の蓮如上人が『白骨のお文』において述べている「無常の風・・・・・」というくだりがぼくは大好きでした。人間の一生なんて 悠久の歴史の中においてははかないものです。でも、そのはかない時間の中で、精一杯努力して人間はいろんなことをして 死んでゆく存在です。作曲活動面においても全く同様で、J.S.バッハの『マタイ受難曲』が世界中の人達に愛されて300年も 生き続けていることに比べての作曲家としての自分の一生のちっぽけさを、まずは謙虚に受け止める必要があります。 が、残念ながら、このようなグローバルな視点をご案内しても、このY支店長のキャパシティーでは絶対に受け止められない と、ぼくは判断しました。既に形骸化してしまっていた職能資格制度にしがみついて出世することが、彼の全てのモチベートの 源泉だとわかりましたので、ぼくを敵に回したら将来何があるかわからないよ、と彼を不安に陥れ、とりあえず、彼がぼくに 二度と口を聞けない体制にすることが、当時のぼくにとっては急務でした。来月就任する「日本アマチュア演奏家協会」理事 として、「ピアノと遊ぶ会」のサロンコンサートを、いずれは、「日本アマチュア演奏家協会」との共催にして、外務省等の公共団体の正式認可による 『チャリティコンサート』も出来るようににしたいという、でっかい夢を当時から既に私は持っていましたので、 Y支店長のような前近代的な方と仕事と関係のないおしゃべりをしている暇なんてなかったのです(笑)。



ともかく、こうしてY支店長は二度と私に仕事以外の要件では口を聞かなくなったので、快適になりました。が、Y支店長の報復 は直ちに実行され、ぼくは、法人営業からいきなり個人受信の店頭窓口という所(端的に言うと窓際ですね)に店内異動させられ ました。また、Y支店長の意向は直ちに『新宿支店』のお局女子職員達に伝えられ、個人受信店頭窓口でも、ぼくが仕事がやりに くくなるような様々な手配がなされました。
一方のぼくは、さしあたっては、あの支店長が転勤でよそへ行くまでは、積極的に仕事なんかするもんか、売られた喧嘩は買って やる、と固く誓っていたのでした(笑)。ぼく自身が、新宿支店の窓際に追いやられた程度のことで、音楽人脈を使うほど、 ぼくは愚かではありません。仕事なんて、窓際であってもなくてもその気になって探せばどこにでも一杯あるものです。 『防御と軽蔑は一種の関与です。』というリルケの言葉どおり、Y支店長はぼくの意識の領域から抹殺しましたので、Y支店長に 無関心な快適な環境が出来て、ほっとしていました。





ここに、登場したのが、一橋大学を卒業して『住友信託銀行』に入社し、『新宿支店』に配属になった、サッカー部出身のN君 でした。大阪桃山台での2週間の新入社員研修を終えて、彼は『新宿支店』にやって来ました。そして、「新宿タカノ」の1Fから 7Fまでに点在していた『住友信託銀行新宿支店』の各部所に、新入社員の彼は、人担次長に従って、順番に挨拶に回りました。 ぼくのいた『新宿支店』の個人受信の店頭窓口は、新入社員が最初の仕事をする所でしたので、彼は最後に挨拶に来た場所でした。 閉店後の時間帯でしたので、そこで働いている全員がローカウンターの前に起立して、彼はお客様の待ち会いスペースのロビー で、自己紹介をして拍手を受けたあと、カウンターの中に一人で入って来て、順番に挨拶しました。当然、彼のぼくへの挨拶は 全支店中、最後でした。

「財務相談室営業課信託受信店頭窓口の仕事をしています、岡田と申します。」

等と、一通りの挨拶をすませた時、N君は

「岡田さん、ちょっといいですか?」

といきなり、彼が最初の仕事をする『新宿支店財務相談室』で一番年が近く、5歳年上だったぼくの耳元に口を寄せて、 こっそり

「岡田さん、新宿支店の中の人達に一応挨拶を済ませましたけど、全般的に『新宿支店』には、美人がいないですね。 たった一人、地下の預金窓口の女性は絶世の美人でしたけど。」

等と、聞く人が聞いたら大変なことになるような言葉をささやきました。実に、実に、生意気な新入社員だと思いました。 でも、新入社員として多分に緊張して挨拶しながら周囲の環境を的確に把握する余裕を持っている彼の潜在的能力はすごいなあ と敬服し、思わず苦笑いしたぼくは、彼の耳元に

「ああ、預金カウンターの彼女だね。確かに一番美人だよ。でも、彼女はもう婚約しているよ。」

とささやき返しました。すると、彼はぼくの耳元で

「残念だなあ。ぼくは、もし、結婚するんだったら、美しい男女が結ばれることが素晴らしいことだって夢を持ってて、それを 実現させたかったんだよなあ。」

とささやいたのでした。

この時、彼の感受性の豊かさ、アンテナの高さ、多分にナルシストだけど全ての人間に優しい感性、茶目っ気等を全て、ぼくは 瞬時に受けとめていました。そして、絶対に彼を公私混同に(笑)可愛がることに決めました。今の『新宿支店』に、ぼくが 社外芸術活動をしていた『ピアノと遊ぶ会』に連れて行く程の人材は彼しかいない、と思いました。なぜなら、彼が美しい男で あるかどうかはどうでもよいことだったけど、彼が自分で自分のことを美しい男だと思っていることは、非常に可笑しく、同時に、 彼が一緒に仕事をする仲間に加わることは、ずっと、自分自身の感性と孤独に対峙するという、作曲活動を続けて来た アーティストとしてのぼくにとっては、とても嬉しかったからです。



こうして、彼の登場によって、事態は180度変換しました。超ハンサムで、たのきんトリオのとしちゃんにそっくりだった彼は、 お局さんを次々と飲みに誘い、ぼくと一緒に行くように彼がセットしたので、支店長の画策は、もろくも崩れてしまいました。 程なく、支店長は他の部署に左遷され、新支店長は素晴らしい方だったので、ぼくはモチベートを取り戻し、受信CIF (Customer's Information File)のシステム構造の勉強を夜遅くまで残ってやり『情報管理担当』となりました。その経験で、 ぼくは『新宿支店』から新店オープン直後の『八王子支店』に転勤になった際、受信CIF整備活用活動をQC活動(いずみ作戦) のリーダーとして展開し、この全店発表会で委員長賞を獲得しました。『八王子支店』の、たまたまぼくの早稲田の先輩だったN 支店長も感受性豊かな素晴らしい方でしたが、かつて『新宿支店』の支店長で、ぼくを支店長室で怒鳴りつけたYさんのような 前近代的な方々は、桜井さんが『住友信託銀行』社長に就任したことが決定打となって、中間管理職から一掃されてしまい ました。



時代は次第に多様な価値観を享受するようになっていて、社外交流の重要性はさらに高まりました。 ぼくの音楽エッセイ集『響き合いを求めて』が、『住友信託銀行会社案内』のトップグラビアページや社内報に掲載され、 全社的にぼくの音楽活動が認知され、『住友信託銀行』社歌の社内吹奏楽団用への編曲を頼まれるようなことも始まりました。 (もちろん、ぼくはこういう現象をかなり醒めて傍観していました。既に、音楽はぼくのライフワークで、周囲の状況なんかに 関係なく、一生続けて行こうと思っていました。)



さて、N君が「住友信託銀行」入社直後配属された『新宿支店』で初めて迎えた1984年の年末の大晦日、彼とぼく2人は 夜中まで仕事でした。お客様がお正月にご来店下さった時のロビーの「お正月」の飾りつけをしていたためでした。 (こういう仕事はぼくたち若い2人がやらなくてはならない頃でした。) 仕事の後、向かいのデニーズで、初詣客が新宿通りを明治神宮に向かっているのを窓越しに見ながら、生 ビールで

「明けましておめでとう」

と乾杯したものです。が、こんな時も含め、ぼくと二人で一緒に飲みに行ったりした時には、 彼は、ぼくが彼を『N君』と呼んでいた言葉をそのまま、自分を意味する主語に使うくらいナルシストでした。が、同時に、 「TOIC」の得点が『住友信託銀行』同期新卒入社の新入社員でNo.1だったことを、いつも一緒に仕事をしていたぼくにすら 開示出来ないくらい謙虚で照れ屋でした。



N君とぼくは独身寮も一緒だったので、通勤電車まで一緒で、公私に渡り仲良くなりました。が、ぼくが入社直後に接した先輩同 様、ぼくは一度たりとも、自分の好きな音楽作品名、作曲家名、作曲学における和声法や対位法の知識を、N君に対して誇るよう なことはしませんでした。ぼくは、こういう音楽の枝葉末節情報に拘るような、オタクな音楽愛好家ではなく、新しいものを創造 するアマチュアアーティストだ、という程度の自負は持っていましたし、そんなことは、「日本アマチュア演奏家協会」や 「ピアノと遊ぶ会」で出会ったアマチュア音楽家達と話せばよいことで、TPOはわきまえていましたから・・・・・。

でも、N君は好奇心の旺盛な男でしたから、いろんな質問をぼくに投げかけて来ましたし、独身寮のぼくの部屋に遊びに来ては、 当時、『住友信託銀行新宿支店』の窓際にいたぼくを観察したり、励ましたり、一緒に戦略を練ったり、バカ話をしたり、 お互いの恋人が美しいことを自慢し合ったり(ぼくの当時の結婚の約束までしていた恋人は、武蔵野音大を卒業したばかりのW嬢 でした。でも、彼女はその後、パリ音楽院に留学し、そのままパリ音楽院で教えることになってしまって、ずっと独身でピアニスト を続けることになりました。女性は男性より、ずーーーっと強いです。成田空港でパリに出発する彼女を見送った後、ショックで 一人で泣き喚いてしまった時から、ずっと今日に至るまで、ぼくはその時のショックから立ち直れずに独身なのです〔笑〕から仕方 ないのだけど、ぼくの作曲した『朝の海』の演奏は、彼女が一番素晴らしかったので、死ぬまで彼女の『朝の海』の演奏は聴けない だろうな、と思っていますので、この曲に関しては、現在は自作自演をするしかないのです。でも、作曲の際に 譜面に向かう時、当時と同じ位、ぼくは純粋な気持ちで作曲に立ち向かえますので、よかったのかもしれません。)等々・・・・・ ともかく、いろんなことがありましたが、既に形骸化していた職能資格制度に全く頼らずに、作曲とピアノ演奏を趣味に能天気に 一生懸命生きていたぼくのことを彼は気に入ってくれたようでした。





ある日曜日の朝のことでした。

東京の東小金井にあった4階建ての独身寮の1階の食堂で朝飯のトーストを食べていた時、ぼくは、 その日に弦楽器仲間と半月後の『ピアノと遊ぶ会』サロンコンサートで演奏する予定だったフォーレの「ピアノ四重奏No.1」の スコアを横に置いていました。その時、N君も朝食を食べに食堂に降りて来て、ぼくの向かいに座りました。そして、

「岡田さん、その真っ赤な表紙の本は何なの?」とさっそく質問して来ました。

「これは本じゃなくて、今日、今から出かけて、弦楽器奏者達と練習する予定の楽譜だよ。」

「でも、表紙が真っ赤で派手すぎるよなあ。」(爆)

「仕方ないよ。これは、インターナショナル版っていう出版社の楽譜でこういう色なんだもの。でも、N君はどんな色の表紙 の楽譜なら好きなんだい。」

「シックで渋いものがいいな。N君はダンディーだから。」(爆)

「じゃあ、これなんかどう?」とぼくはもう一つ手提げ袋に入れていたアイボリーの表紙のデュラン社のフォーレ「ピアノトリオ」 の楽譜を出して見せたところ、

「こっちの方がずっといいな。こっちの方がダンディーで渋くてN君の趣味にはピッタシだよ。」(爆)

「うーーーん。そうか。N君は外見にこだわるんだったよなあ。もし、聴くんだったら、こっちの表紙の曲の方がいいんだね。」

「うん。」

「そっか。・・・・・じゃあ、今日練習する仲間に相談してみよう。実は半月後のぼくがやっている『ピアノと遊ぶ会』で一緒に 演奏する仲間達との今日は練習だから、もし、N君がアイボリーの表紙の作品を聴きたいのならば、こっちの方を演奏する ように変更することも大丈夫さ。N君が聴きに来てくれるんだったら、曲目変更は可能だよ。」

「本当ですか。じゃあ、絶対に聴きに行きますよ。きっとダンディーな曲に違いないから楽しみだなあ。」

「よし。話は決まった。今日は仲間と相談して、こっちのアイボリーの方を演奏するようにするよ。」ヴィオラの人には、別に、 ラフマニノフの『ヴォカリーズ』とシューベルトの『アルペジョーネソナタ』をデュオでぼくが伴奏すればいいと思って、ぼくは そのように答えました。

「でも、この楽譜の作曲家ってどんな人なの? ファウレって書いてあるけど。」

「ハハハハハ・・・・・。これは、フォーレ、あるいはフォレって読むんだよ。フランス近代、つまり、20世紀初頭のフランス で主流だった一連の作曲家達の活躍した時代の、フランス人の作曲家の名前だよ。」

「N君の知識不足でした、岡田さんごめんなさい。やっぱ、N君なんか聴きに行かない方がいいんだな。」

「何、水臭いことを言ってるんだ、N君。君はずっとサッカーやって来たんだし、ぼくは小さい頃から音楽やって来たんだから あたり前だよ。でも、そういう枝葉末節の音楽知識の不足した人をバカにするようなオタクは、ぼくの音楽仲間達の集まりの 『ピアノと遊ぶ会』には一人もいないはずだよ。もし、N君が『ピアノと遊ぶ会』でフォーレをファウレって言うことについて、 バカにするような奴等がいたら、会長のぼくがそんな奴ら直ちに除名にするから、安心して聴きにおいで。もちろん、当日の プログラムには、ファウレ作曲『ピアノトリオ』って載せるようにするよ。」(爆)

「うわぁー。それはいけない。岡田さん。岡田さんの一番大切な後輩のN君(笑)のためとはいえ、公私混同だよ。」(爆)

「大切な後輩のN君を大事にするのはあたり前だよ。趣味の世界の公私混同大いに結構じゃないか。N君のためなら、いつだって ぼくは一肌でも二肌でも脱ぐよ。」(爆)

「岡田さん、参りました。わかりました。絶対聴きに行きますよ。」(爆)

「プログラムは出来次第、N君のポストに入れとくよ。『ピアノと遊ぶ会』のメンバーの大半はN君と同世代だよ。だから、 きっと新しい友人が出来るよ。フィジカルエリートを目指しているN君を会員の皆に紹介出来ることは、ぼくも鼻が高いよ。」(爆)



こうして、N君は、『ピアノと遊ぶ会』サロンコンサートに初めて聴きに来ました。この日のサロンコンサートは、フォウレ作曲 (笑)「ピアノトリオ」と共に、ぼくはぼくが若い頃作曲したピアノ組曲の代表作「みちのくのスケッチ」OP.26、「武蔵野」OP.28、 「青い国から」OP.32、「ドビュッシーに捧げる6つの小品」OP.39等の自作自演を、会員の皆様の要望で久しぶりに披露した時 でした。

途中の休憩時間、いつものことでしたが、『ピアノと遊ぶ会』会員の武蔵野音大の若い女性達と桐朋音大の若い女性達(多分に 美しい女性ばかりでした)に囲まれて、会長のぼくはお茶を飲んでケーキを食べていましたが、ぼくの会社の後輩のN君は、 ずっと特別聴衆として、会長のぼくの横に座ってお茶を飲んでケーキを食べていて、少なからず楽しそうでしたが、音楽知識 が足りないことを気遣って、終始無口でした。が、この無口なことが、N君が『ピアノと遊ぶ会』会員の武蔵野音大の若い女性 達と桐朋音大の若い女性達に非常にモテる決定的な要因となりました。



「Nさんて、本当に岡田さんの会社の後輩なの。だったら大変でしょう。」等々、彼女達のいろんなおしゃべりについにN君も 引き込まれて、ぼくも今日のプログラムの『ファウレ』はミスプリントじゃないこと等を説明しました。

彼はたった一言、

「フォウレ作曲(笑)『ピアノトリオ』はとても渋くていい曲だったので、デュラン社の楽譜の表紙の色とフィットして いるなあ。」と言っただけで、会員のみんなは爆笑でした。

さらに、「でもびっくりしたな。岡田さんのこと改めて見直しちゃったよ。岡田さんて実は、ナルシストなんだと、自作自演を 聴いてわかったよ。でも『N君』ほどカッコよくないから、『N君』みたいにナルシストになリ切れなかっただけなんだ。」等 と、実に、実に、生意気な、絶対に反論出来ない正論をチャッカリ言ってしまいました。またまた出席した全会員爆笑でした。

でも、まだ続きがありました。

「今日の、岡田さんの自作自演の中では、この曲とこの曲がよかったな。」と、彼の気に入った具体的な曲名まで、指摘して くれたのでした。

こうして、N君の好きなぼくのピアノ小品を10曲集めて、「10のフラグメント」OP.63・・・会社の後輩に献呈・・・がその場で出来 ました。



さらに、その日の後半のプログラムでチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲」全楽章のピアノパートをピアノ2台で演奏した、 桐朋音大室内楽研究院在学中だった、N君と同年の須江太郎君の演奏前後の態度、仕草を冷静に見ていたN君は、須江君の演奏後、 須江君のところへ近づいて、名刺を渡して、いつか一緒に飲みに行きたいな、と誘ったのでした。

後でN君に聞くと、N君の分析によると、須江君の演奏前後の態度は終始平常心だったそうで、サッカーの試合の前後にN君が キープしている平常心と同質で、実にダンディーでカッコよかったのだそうです。

こうして、『ピアノと遊ぶ会』の中に、N君のファンクラブが出来てしまいましたが、この程度のことは、ぼくの予想範囲でした。 そして、彼を初めて『ピアノと遊ぶ会』に連れて行った会長のぼくの神話は、さらに膨らむことになりました(笑)。

また、ぼくも、入社直後のN君が、ぼくの耳元でささやいた言葉に、彼の「感受性」を瞬時に嗅ぎ取ったぼくの直観力も、 まだまだ捨てたものじゃないな、と嬉しくなったものです。



それにしても、ぼくの自作自演に対して、

「びっくりしたな。岡田さんのこと改めて見直しちゃったよ。岡田さんて実は、ナルシストなんだと、自作自演を聴いてわかったよ。 でも『N君』ほどカッコよくないから、『N君』みたいにナルシストになリ切れなかっただけなんだ。」

なんて、実に、実に、生意気で、絶対に反論出来ない正しい感想をチャッカリ言ってくれる生粋のサッカーマンという体育会系の 人と『住友信託銀行』社内で出会ったのは、実に久しぶりでした。ぼくが先輩の結婚式披露宴で初演するために「ラプソディー No.1」OP.37(失われた時のために)・・・会社の先輩に献呈・・・を作曲した23歳だった頃から既に4年以上の歳月が流れて いました。

思い起こすと、『住友信託銀行』在勤の15年間の間に出会った従業員の中で、ぼくの気持ちを込めた自作を献呈したいほどの ストレートで熱い感想をぼくの自作自演に対してぶつけて来た人は、後にも先にも、あの先輩と後輩のN君のたった2人だけ でした。




しばらくして、N君は「TOIC」の得点が『住友信託銀行』同期新卒入社の新入社員でNo.1だったことをぼくに言ってくれ、 彼が20歳代の内に、英語圏の支店(ニューヨーク、ロサンゼルスかロンドン)に転勤したがっていることも、ぼくは知らされ ました。当時、新宿支店で融資を担当していたN君とぼくのラインは違っていましたが、それとなく、新支店長に側面から、 彼の英語能力を生かすことが、『住友信託銀行』の活性化につながることを、ぼくは力説しました。

が、N君は謙虚に融資の仕事に邁進しましたので、ぼくが『新宿支店」から『八王子支店』に転勤になって間もなく、彼は、 望みかなって『新宿支店』から『ロサンゼルス支店』に転勤しました。





N君が『ロサンゼルス支店』に3年間勤務した後帰国した時、2人が初めて出会った『新宿支店』のあった『新宿タカノ』 の隣の『中村屋』で久しぶりに再会しました。アールグレイを飲みながら、彼はロスでのいろんなことを話してくれました。

この時、彼の話で一番感銘を受けたのは、ロサンゼルス支店の独身寮になっていた借り上げ高層マンションの1Fにあった、 毎朝モーニングを食べていたコーヒーハウスとその隣のフローリストで働いていた同世代(20歳代後半)のアメリカ人達と 親しい友人になった話でした。

「彼らと『N君』は、スキーも一緒に行った大の仲良しだったのに、1年後に彼らが順番にエイズで死んじゃったんだ。」

「その時に彼らがゲイだったことがわかってショックだったよ。でも、みんなとてもジェントルでいい奴等で、ロスで出会った 大事な友人だったんだ。」

「ならさあ、何で元気なうちに自分達がゲイだって『N君』に言ってくれなかったのかなあ、水臭いよなあ。」

「彼らはホモセクシャルな感覚で『N君』と接していたかったのかもしれないけど、『N君』はただ、彼らのことを人間的に 好きだったんだよ。だから、もっと本音で『N君』にぶつかって来て欲しかったんだ。岡田さん、ぼく間違ってますか。 よくわかんなくなったよ。『N君』の気持ちの表現の仕方が悪くてそれが彼らに届かなかったから、自分達がゲイだって 『N君』に言ってくれなかったのかなあ。・・・・・なんてね、いろんなこと考えたよ。」

「でも、死んでしまったらもうどうしようもないよね。『N君』はただ、ひたすら悲しかったよ。」

・・・・・と言っていました。

全ての人間に対して自分の現状の「感受性」でぶつかって行く飽くなきヴァイタリティー、全ての人間に対する 限りなく優しい感性、豊かな感受性は、ぼくをOJT指導してくれた、あの先輩と全く同じでした。









その後、ぼくが母と祖母の介護のために高松にUターンし、「日本マンパワー四国総代理店人材開発部長」をしていた9年前、 「日本マンパワー四国総代理店」で採用して育てていた部下と一緒に、「日本マンパワー東京本社」に出張した際、N君がいた 「住友信託銀行東京営業部」のある丸ノ内で再会しました。彼とはお互い会社の昼休みに昼飯を食べようと会ったのだけど、 応接間で彼を待っている間、

『もう、N君とは全く別の会社で勤務することになってしまったんだなあ。』

と、ぼくは何だかよくわからない寂しい思いに浸ってしまっていました。

が、彼は現れてすぐ、名刺交換した時、ぼくの部下がまだ若いのを見て、ランチは食べ放題のところに行こう、と一緒に外に出ま した。そして、丸ノ内の某ホテルのレストランに向かって歩きながら、

「『N君』にとって岡田さんはどこにいて何をしてたって岡田さんだよ。名刺の肩書きなんかどうだっていいよ。『N君』 が『住友信託銀行』に入社して配属された『住友信託銀行新宿支店』にいた時のように、岡田さんって呼んでいいですよね。」

「ずっと、岡田さんは岡田さんで『N君』は『N君』なんだから。」

何てことをサラッと言って、それとなく沈んだ表情のぼくを励まし、当時、日本大使館の過激派による 監禁事件の解決に協力した「シプリアニ司教」の博愛主義を多分に尊敬していて、「シプリアニN」と自分で自分のニック ネームを決めていることを話し出しました。やっぱり彼は何歳になっても、ナルシストだな、とぼくは思いました(笑)。
そして、「岡田さん、今度手紙くれる時、宛名は『シプリアニN』でいいよ。」
何て言って、ぼくとぼくの部下を爆笑させながらレストランに入りました。

が、その後も彼の作戦がありました。



「岡田さんには『N君』が新入社員の頃、いろいろご馳走してもらったから、今日は『N君』がご馳走します。」

と注文してくれたのですが、何と、そこのレストランはカレー専門店でした。 非常に美味しいカレーライスだったのだけど、ものすごくデカいステンレスのお重のような器に30種類以上の、福神漬け、 らっきょう、パルメザンチーズ等々のカレーライスに添えて食べるものの数々が出て来ました。そして、カレーライスに 添えて食べるものの数々が食べ放題であったのです。

「これが食べ放題で、お替り自由なんだ。岡田さん、いくらでもお替りをどうぞ。」(爆)

「N君、こんなものいくらでもどうぞって言われたって、お替りなんて出来ないよ。ぼくをハメたな。」(爆)

「だからいいんじゃない。岡田さんが高松にUターンして久しぶりに会って、岡田さんずいぶん太っちゃったから、 そんなにたくさん食べてちゃいけないよ、って『N君』は思ったんだ。『N君』は『シプリアニ司教』のように、博愛主義 で生きてくことにしたんだから・・・・・岡田さんへの『N君』の深い愛を受け取って欲しいな。」(爆)



食後、隣の喫茶店でお茶を飲んだ時、いろんな思い出話や近況報告に花を咲かせました。

「『N君』はついに結婚して女の子がいるんだ。だけど、何かあると、奥様と娘が結託して『N君』は大変なんだ。」(爆)

「住信VISAカードの今期中達成期限が1ヶ月後に迫っていたのに、新宿支店がほとんど達成不可能な状況だった時、 店内キャンペーンのために新入社員のN君の作った『住信VISAカードせとぎわキャンペーン』『達成悲願』のロゴのポスター は最高だったな。あれを見てみんな爆笑したし、明るくなったよ。あの期は達成出来なかったけど、その次からはずっと 達成するようになったんだからあれでOK。でも、『せとぎわキャンペーン』なんてキャンペーンは日本全国どこの会社にも ないだろうな。」(爆)

「だって、『せとぎわ』だったじゃない。とても1ヶ月で獲得できる枚数じゃなかったんだもの。でも『悲願』はいい言葉 だったなあ。あんな状況でもまだ達成の望みを持って毎日生きるなんて、まさしく『悲願』だよ。」(爆)

「でも、ぼく、体育会系の出身じゃなかったから、N君は嫌だったんじゃないのかいつも心配してたよ。」(爆)

「とんでもないよ。後輩の『N君』が先輩の岡田さんに教える局面があっても、岡田さんが何とも思っていない体育系出身 じゃない人だったことは、『N君』にとってもよかったんだよなあ。でなかったら、 岡田さんのやってた『ピアノと遊ぶ会』に聴きに行って、チャイコフスキーのピアノ協奏曲弾いてた須江太郎君と仲良くなって 一緒に飲みに行って夜遅くなったので『N君』の独身寮の部屋に彼を泊めたりしないよ。」(爆)

「ああ、そう言えばそんなこともあったな。須江君は、今、パリにいるよ。今度、ぼくから伝えとくね。N君のこと尊敬してる よ、彼は。でも、N君のためにぼくが編纂した「10のフラグメント OP.63」は今でも随分人気があるみたいだよ。」(爆)

「あたり前です(爆)。岡田さんのいっぱいあるピアノ曲の中で、『N君』の好きなものを選んだのだから。」(爆)

「ハハハハハ・・・。相変わらず、そのナルシスで生意気なところがN君の最高の魅力だよ。なくしちゃだめだよ。」(爆)

「『N君』が『住友信託銀行』に入社して、初めて迎えた新年、夜中まで『新宿支店』で仕事して2人っきりで『デニーズ』で 乾杯何てことあったよなあ。『N君』の社会人初めての年越しは岡田さんと2人っきりだったこと、忘れようったって絶対忘れ られないよ。岡田さんって入社直後で、まだみずみずしい感性で社会人をスタートしたばかりの『N君』にとんでもない記憶を 植え付けてさあ、全くひどい先輩だよ。」(爆)

「そういえば、信託受付カウンターにいたN君が入社1年目頃のバレンタインデー、すごかったな。上は70歳代から下は ハイティーンまでの女性のお客様がみんな貸付信託を預けにN君のところにチョコレート持って来て、ローカウンターはN君への チョコレートで一杯だったろう。支店長も課長も腰抜かしてたけど、N君はチャッカリ三越と伊勢丹のショッピング袋を2つも 持って来ていて、あれに全部入れて持って帰ったじゃないか。みんな少しも分けてくれないって怒ってたみたいだよ。」 (爆)

「あたり前です(爆)。何で支店長になんか分けてあげないといけないの(爆)。冗談じゃありません(爆)。バレンタインの チョコレートは『N君』への愛なんだもの。全部受け止めなきゃいけないから『N君』は独身寮に持って帰って全部食べました よ(爆)。全部食べるの大変だったんだよ。」(爆)

「でも、N君はすごく優秀で感受性の塊だったから、ぼくの方も、ハッと気づかせられる局面があって、 君には随分お世話になったと思ってるよ。」(爆)

「はい。お世話いたしました(爆)。新宿ワシントンホテル最上階のステーキハウスで『N君』にご馳走してくれた時、岡田さん は歩いて行ける距離なのに『疲れてるだろ。』ってタクシー拾って連れて行ってくれたでしょう。でも、東口から 西口へのガードくぐる前の車線変更はけっこう面倒なのわかってたけど、あの時、タクシーの運転手に『次の車線は右側に入って 下さい。入ってくれないとヤダヤダ。』って駄々をこねてて、『N君』は可笑しかったな。岡田さんに、『ヤダヤダ』って駄々の こね方を教わったのはよかったかな。『N君』は、『ヤダヤダ』を『ヤダ』に変換して、『その件はヤダ。』って言ってますよ。 便利な短縮言葉ですね。でもね、『ヤダヤダ』って駄々をこねるのは可愛いけどいけないよ、岡田さん。もう寄る年並には勝て ないんだから。」(爆)

「N君、ごめんな。ついつい、小さい頃の癖が出ちゃってたんだな。」(爆)

「謝んなくていいですよ。アフターファイブの時間に、岡田さんがそういう小さい頃の癖も『N君』の前では絶対に隠さない で本音でつきあってくれたのは、嬉しかったんだ。」(爆)

「よくわかった、N君。これからぼくは二度と『ヤダヤダ』って駄々はこねないよ。約束する。」(爆)

「はい、素直でよろしい(爆)。でも、男と男の約束だよ、岡田さん。破ったりしたら許さないよ(爆)。 岡田さんの部下の方、岡田さんがこれからも『ヤダヤダ』って駄々をこねるようだったら、いつでも『N君』に相談してね。」 (爆)

「これは、おみやげのさぬきうどん。『・・・・・N君とN君のご家族へのぼくの深い愛を受け取って欲しいな。』」(爆)

「ハハハハハ・・・。岡田さんのその言葉は知的所有権侵害だけど、有難うございます。やっばし、『岡田さん』は『岡田さん』 だあ。ちっとも変わってないよ。会えてよかった。」(爆)

等々、いろんなバカ話をして楽しいひと時を過ごしました。



その後ぼくはお手洗いに行ったので、レジでは、N君とぼくの若い部下の2人だけになっていました。

後で、ぼくの部下に『N君』の感想を聞いたところ、「岡田さんの噂どおり、すごい感受性の塊のような人だった。二人の会話 が、とても30歳代の人達のものとは思えなくて、可笑しくて可笑しくて、ぼくは笑いっぱなしでした(爆)。『住友信託銀行』っ てすごくいい会社なんだということがわかりました。」とのことでした。

そして、こうも言っていました。
「でも、一番びっくりしたのは、岡田さんがお手洗いに行ってる時、レジの横で、Nさんがぼくの肩に手をかけて、 『君は今、「日本マンパワー四国総代理店」入社直後で、岡田さんの指導受けてるんだろ。だったらガンバレよ!』ってぼくに それとなくサラッと一言言って励ましてくれたことです。カッコいいな。あんな香川県には絶対いないようなすごい人に、 生まれて初めて出会えてよかった。ぼくも高松で頑張ります。」

当時のぼくの部下は、香川県善通寺市で生まれ、香川県から外に出ることなく大きくなり、高松市の地場企業で働いていた人 でしたので、ぼくは彼に、N君を会わせたかったのでした。が、ぼくがN君にそんなことを一切説明しなくても、ぼくの N君に対する「期待役割」は十分わかっていました。

ぼくの部下は、高松に帰った後、かなり難しい日本マンパワーの「人材開発業界」の経営コンサルタント派遣の営業活動に注力し、 見違えるような大きな成果を上げるようになりました。全て、『N君』の与えた強烈なインパクトのお陰でした。



なのに、N君は5年前「住友信託銀行」から、分社化による部単位ごとのリストラにあってしまいました。




N君から、いつもの茶目っ気タップリの明るい前向きの響きの声の電話で、

「岡田さん、『N君』はね、名刺が変わっちゃったんだよね。」

と、まるで人事のようなラテン気質の彼らしい報告を受け取った時には、びっくりしました。

まだ、N君は30歳代で、『ロサンゼルス支店』でも、帰国後の『企業情報部』でのM&Aの営業でも、かなりな成果を 上げていたのに、住友信託銀行東京人事部はいったい何てことをするんだ。かつて、ぼくが四国高松にUターンする直前に、 ぼくが大変お世話になった、早稲田大学の先輩でもあった『八王子支店』支店長だったNさんが『プロミス』に出向という 形でリストラされたことを知って驚いていたけど、もう今は30歳代の人達までリストラされる大変な時代になったのか ・・・・・・・・。

「どうしてN君が」という驚愕と、そんなことをしてまで自分は左団扇でぬくぬくと生きて行こうとしている『住友信託銀行』 東京人事部の担当役員への怒りで、高松で受話器を持っていたぼくの手は震えて震えて、自然に悔し涙がこぼれてきて、どうし ようもなかったものでした。

『住友信託銀行』から、二度と本体に戻って来れないようにリストラされたことについて、 「プライドが許さない。」何て下らない感慨は、N君は持っていません。「男一匹、生き抜いてやるぜ。」という気概を持って いる男です。でも、だからこそ、こういう素晴らしい人材が入社以来努力して来た道程が、不良債権処理のためのリストラに よって帳消しになるなんてことは、かつて先輩だったぼくは、アーティストとしての誇りにかけても、絶対に許さ ないのです。



このようにして、『住友信託銀行』本体は、人件費削減をして得たお金で不良債権を処理し、『UFJ信託銀行』を買収 出来るお金を貯蓄しました。「『住友信託銀行』が一匹狼の「勝ち組」の金融機関だ」という評価について、 「勝ち組」は「勝ち組」でよいのです。



でも、もっと大切なことは

「『勝つ人がいる』ということは必ず『負ける人がいる』というあたり前のこと」

「勝った時に負けた人を思いやる気持ちのない人は生きていても仕方のない人間だということ」


なのです。

この人間として生きていく上での最低限の基本原則を認識した上で「勝ち組」「負け組」は語られるべきです。

『住友信託銀行』も法人である以上、人の集合体です。「一匹狼」であるはずがありません。そして、もし、『住友信託銀行』 東京人事部の担当役員が従業員をリストラする権限を持っていて、自分は「一匹狼」だなんて思い上がっているのだとしたら、 このような輩は、『住友信託銀行』の役員なんかである前に、人間ですらないのですから、 直ちに抹殺されなくてはなりません。



『住友信託銀行』東京人事部の担当役員が、このあたりの人間性を喪失してまで、ひたすら「勝ち組」を目指し、 そのために職場風土が殺伐としたものになってしまったことは、取り返しのつかないことです。



『住友信託銀行』が『UFJ信託銀行』を買収出来なくなったのは、天罰が下っただけの ことです。



そして、昨今のマスコミの、

『勝ち組』だ『負け組』だと騒ぐことの何と空しいことか・・・・・。

また、「勝ち組」にこだわる人達は、概して、感受性や吸収力が乏しいことは否めません。困ったことです。







「そんなことより、やっばしマクドナルドは『フィレオフィッシュ』ですね。美味しいな。 先輩は『ビッグマック』ですか。相変わらず大食いだな。奥様、大変でしょう。」(爆)

「うるせぇ(爆)。AB型は話をそらせるのが上手いな。でもそんなやり方はオレには通用せんぞ。んーなことより、 お前まだ独身なんだろ。早く結婚しろ。全く、のんびりしてるんだから。まさかピアノと結婚する訳にはいかんだろう。」(爆)

「いやいや先輩、結婚云々は置いといて、ピアノは女性と違って、絶対にぼくを裏切らないからいいんですよ。」(爆)

「そんなにたくさんの女性に裏切られたのか? 可哀想に(爆)。でも、お前って本当に面白い奴だなあ。しばらく連絡なかった から、オレも家内も心配してたんだぜ。」

「本当に、すみませんでした。音楽に週末を全部使っているので、近況報告も出来ず申し訳ありませんでした。」

「そっか。オレはこの近所に住んでるんだ。さっきの話だと、ヴァイオリン合わせてる人の近所なんだろ。住所ここだよ。 遊びに来いよ。ただし、泊りがけでな。東京の独身寮のメシは相変わらずまずいだろうから(爆)。いつでも大歓迎だよ。」

2人の会話を聞いていた先輩の奥様は隣の席でずっと笑い転げていました。




あたり前だけど、

「でもさあ、ひどいよ先輩、ぼくが住友信託を辞めた方がいい なんて思ってるなんてさあ。」

とぼくが先輩に言ったことは全く嘘で、 本当は嬉しかったのです。

ぼくがタキシード着て歩いているのを見ただけで、こんなことを平気で予測してくれる、 型破りな先輩が、ぼくは大好きだった!

当時、まだぼくは、母と祖母の介護のため高松にUターンしないといけないことになるなんて全く予想していませんでした。 もちろん、大蔵省の指導で、人口50万人以下の県庁所在地地方都市への信託銀行の支店出店は、特段の事情を除いて1社だけ、 と決められていて、ぼくの出身地の高松市は三井信託銀行に指定されていたので、在勤中は「住友信託銀行高松支店」は絶対に 出来ないことを知って、ぼくは「住友信託銀行」に入社しましたので、高松にUターンするならば、転職しないと いけないことは知っていました。が、「住友信託銀行」を辞めてまでUターンすることも、音楽家になるなんてことも、全然 考えていませんでした。でも、この先輩は、もし、そうなったとしても全く変わらない人間関係を続けられる、ぼくにとって、 既に人生の先輩になっていたのです。

人生の途中で出会った、全ての人間関係を構築した仲間に、体育会系であるかどうかなんて相手の肩書き なんか全く関係なく、自分の知らないことをやっている仲間に対しては、ちょうど、松山支店在勤当時のぼくの独身寮のグランドピアノの ある部屋に遊びに来て、ぼくがピアノを演奏している姿を、好奇心一杯のキラキラした大きな目で見て、まずは、自分が現在 持っている「感受性」をぶつけて立ち向かって来たように、飽くなきヴァイタリティーを持って人生を堂々と歩んでいる先輩が ぼくは大好きだった。だから、あれから何年も経っていた東京の某私鉄の駅への歩道に面する「マクドナルド」の前で バッタリ出くわした時も、この基本的な先輩の生き方がちっとも変わっていないことを確認出来、将来に渡っても、先輩の ぼくの大好きな生き方は永遠に変わらないだろうなと確信出来たことが、何よりも嬉しかったのです。そして、こんなこと 先輩に言葉で説明なんかしなくても、鋭い感受性でぼくの気持ちをわかってくれ、豪快に照れ臭さを笑い飛ばしてくれて、ただ、 ぼくのことを好きでいてくれる先輩であることも、ちっとも変わっていませんでした。

1980年「住友信託銀行松山支店」で、先輩のOJT指導を、もしぼくが受けていなかったなら、四国へのUターン後、自分の 幸福に関する価値観を切り替えて、新しい仕事に邁進することは絶対に出来なかっただろうと思う度に、先輩と出会い、 先輩の型破りな生き方に直接触れることが出来たことは、本当にラッキーなことでした。

ぼくは本当に作曲を続けていてよかった、と思っています。そして、「ラプソディーNo.1」OP.37(失われた時のために) ・・・会社の先輩に献呈・・・を23歳当時、先輩の結婚式披露宴までの時間がなかった中で、当時としては随分頑張って作曲 しててよかった。





悲しいけど、先輩とはもう二度と会えないのかもしれない。





でも、ぼくがピアノでこの自作の「ラプソディーNo.1」OP.37(失われた時のために)・・・会社の先輩に献呈・・・を演奏 する時、先輩は、どんなに年をとっていても、出世していても、リストラされていても、転職していても、いつでも、ぼくの指の 押さえるピアノの鍵盤の下にいる!

こんな自作自演はぼくにしか絶対に出来ないんだ!






最後に、ぼくが「ラプソディーNo.1」OP.37(失われた時のために)・・・会社の先輩に献呈・・・を作曲するインスピレーション を引き出した先輩の素直で鋭い感受性と、そのための全ての人間関係確立のための環境設定をして下さった、 尊敬するぼくの先輩に、深く深く感謝いたします。



また、「10のフラグメント」 OP.63・・・会社の後輩に献呈・・・の編纂をぼくに決意させた、キラキラした感受性一杯で生意気で茶目っ気タップリ のN君を、ぼくの後輩に出来たこと、そして、岡田克彦という一人の人間として、N君にぼくの作曲作品を献呈する程の 人間関係を確立出来たお陰で、彼とぼくが『住友信託銀行』を離れた今でも、変わらぬ友情を保持出来る全ての状況について、 深く深く感謝いたします。



そして、「『人と人の出会いは、全て偶然だけど、その偶然の何パーセントを必然に出来るか』ということ、この値が、 人生における快楽の度合いを測定する最も有効なバロメーターだ!」というぼくの大好きな言葉を この2人の先輩と後輩の間において実現出来たことを、ぼくは死ぬまで忘れません。




「大好きなぼくの先輩、後輩、どうも、ありがとう!」








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