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『白骨のお文』
・・・・・今を生きることの価値について・・・・・




岡田克彦


(2005.12.5.ホームページ掲載のために執筆)



BGM;岡田克彦『ヴァイオリンとピアノのためのファンタジー OP.58』


( 岡田克彦25歳当時作曲)

(ヴァイオリン;竹内恵梨子、ピアノ;岡田克彦)


〔 1985.8.18.『ピアノと遊ぶ会』サロンコンサートライブ収録 〕







今日は、今を生きることの価値と、音楽芸術の発展に邪魔な、見栄、虚栄、コビ、物腰、嫉妬、陰口、意地等の女性的な 価値観をぼくが会長をしている『ピアノと遊ぶ会』から排除し、該当者を精神的に抹殺する有効な方法について具体的に 述べます。他の音楽サークルを運営している皆様のご参考にしていただければ幸いです。



さて、昨今の、急激なウェブ時代の開始によって、色々な物事が、インターネットによって便利に解決されるようになって 来ました。

ぼくのホームページ「K.OKADAワールド」もそういった流れの中で、5年前、愛知県豊橋市在住の作曲家の友人 の奨めで、全て、彼が準備してくれたので、パソコンを買って数ヶ月という中で立ち上げることが出来ました。

ホームページ立上げ当時から、JALに勤務していた佐藤君という若い友人は、2ちゃんねるという巨大掲示板があって、 そこのネットウォッチ板という、急速に来場者が増えるかもしれないくらい、明確な自分の意見を持っている他人の ホームページを寄ってたかって潰すことを企んでいるものがあるので、注意した方がいいですよ、と言って下さって いましたが、まさか、そこが、ぼくのホームページを攻撃し、ぼくの学歴、職歴までを2ちゃんねるの掲示板上で 捏造したり、勝手にぼくのメールアドレスを使って、松坂牛5キロ等を購入し、ぼくの自宅に代引きで送りつける ようないたずらをするとは思ってもいませんでした。

たぶん若い人達が面白半分にこういういたずらをしているのだろうと思っていましたが、若い、と一言で言ってもいろ いろあって、中心は、たぶん30歳代前半のウェブが本格化する前段階のオタクな人達、暇な主婦層あたりが中心のよう に感じています。大体、2ちゃんねるには「チクリ板」という掲示板もあって、気に入らない(ムカツク〔笑〕) 上司のいる自分の会社の裏事情を晒すことを生きがいにしている人達もいるようなので、そういう世代であろうと 推察出来るのです。

この半分近くはたぶん女性だろうと、ぼくは推察しています。というのも、女性という生き物は、人の不幸が自分の 最高の幸せになるようですし、隣の芝生が自分の芝生より青いと気分が悪くなったり、見栄、虚栄、嫉妬と毎日の ファウンデーションの色のような化粧して化ける外見に拘って、陰口を叩いて生きている人が多いからです。また、 昨今の女性の社会進出を代表する、マスコミのパーソナリティーの女性に代表されるように、仕草や物腰だけで、 中身のない人達が多いようです。さらに、この年代の男性諸氏が女性化していると言われるくらい付和雷同に生きているので、 ますます、この年代の女性が増長しているようでありますね。

ぼくが趣味にしているピアノの世界は、同様、ぼくの趣味の作曲の世界と全く異なり、圧倒的に女性の多いところでした ので、「ピアノと遊ぶ会」設立にあたり、幹事は全員男性にして、硬派的な集団として開始し、媚を売るような態度、 物腰でピアノを演奏するような女性は邪魔な生き物として除名処分にしていました。それも、ただ除名にするようなこと はせずに、自発性を重んじ、「ピアノと遊ぶ会」に二度と出席したくなくなるようにいたしました。すなわち、喫茶店に 演奏中にコビを売った女性ピアニストを呼び出して、男性幹事3名が取り囲んで、前回の「ピアノと遊ぶ会」でその女性 が演奏した曲目の楽譜を見ながら、どこでコビを売るような目つきや仕草をしたか、着て来た衣装が演奏した作品にいかに フィットしていなかったか、ファウンデーションの色が作品に似合っていなかった等を克明に指摘し、二度と立ち直れない ように精神的に抹殺するために、その女性が泣き出すまでそれらの事象が起きた原因を追及、問題解決を迫り、 芸術活動にあたって邪魔になる世俗的な見栄や虚栄心を叩き潰すようにしていました。これが、ぼくの言う「表口」です。 つまり、女性の大好きな「陰口」は一切許していませんでした。「表口」は別名「瓦礫抹殺」とも言われていて、 「ピアノと遊ぶ会」には「瓦礫」を入会させないという確固たる仕組を作っていました。

以上のようなところから、1980年当時の「ピアノと遊ぶ会」サロンコンサートは怖いところだという噂が、東京の音大ピアノ 科学生の大半を占めていた女性に広がりましたので、発展の速度が早まることになりました。それくらい、ピアノの世界は 作曲や室内楽の世界と違って女性が多すぎたので、幹部が女性の色香に惑わされたサークルは全て長く続いていないような 状況でした。また、ピアノサークルとして、「ピアノと遊ぶ会」は音楽を目的にしていましたので、まるでソープランド のような、部室が会員のデートやセックスフレンドとの待ち合わせ場所になっているような東京都内の大学内のピアノ サークルとは絶縁状態でやって来ましたので、うまく行きました。

以上のような経験から、2ちゃんねるの掲示板にどんな男言葉で書き込んでいても、女性であるかどうかは大体、直感的に ぼくはわかります。まあ、昨今は、女性化、中性化している男性が多いようですので、厳密な性別はわかりませんよ。 でも、ぼくは、女性化、中性化した男性は、女性と同類と考えていますので、一緒に扱って差し支えないと思っています。 もちろん、男性的な女性もいますが、それはそれでよいのです。

ところで、友人からの情報によると、2ちゃんねるの掲示板では、ぼくが音大ピアノ科学生コンプレックスを持っている ことになっているそうで、これもまた、女性、あるいは女性的なオタクの妄想だな、と笑ってしまいました。 あんな女性だらけの陰口の横行している音大ピアノ科のようなバカげた環境にコンプレックスを持つなんて有り得ない ことですよ(笑)。

さて、音楽活動に関して、ぼくは成功しないものは、最初から絶対に着手しません。東京でプロデュースした 「ピアノと遊ぶ会」、大阪でプロデュースした「コンセール・コスモ」も全て成功させました。これは、ぼくの作曲作品 や執筆エッセイにおいても同様ですので、大体親しい音楽仲間達からはいつも「岡田さんは先に結論が決まっているので すね。」と言われますが、その通りです。エッセイにおいても、起承転結の、結から先に執筆します。結論に至るプロセス の論理性を後で考えれば、敵や味方を増やすような強烈な文章が書けるものですし、作曲も同様です。

従って、このホームページ「K.OKADAワールド」も成功の結論を先に決めてから立ち上げましたので、出来る限り、 多くの敵と味方を作ることが目的です。念の為付け加えておくならば、「意地でも閉鎖しない」なんて女性的なことは ぼくは一切考えていません。意地は、見栄、虚栄、コビ、物腰、嫉妬、陰口と同様、女性の得意分野ですので、ぼくと は無縁です。ただし、成功の結論は先に決まっているので、それに向けて粛々と進めるだけのこと。



ところで、作曲と違って、演奏を中心に活動している人達は、今を生きることのみが大切なようですので、今を生きるこ との価値について触れている、ぼくの尊敬する蓮如の執筆した「白骨のお文」を以下に掲載することにしました。 昨今の若い人達は概して歴史と古典が苦手なようなので(第一、ノブゴロド王国が西暦何年に出来たかなんて知らない 若い人達が多いみたいですしね〔笑〕。)現代意訳と共に掲載しますので、このあたりをお読みになって、今を生きる ことの価値について、改めてお考えになればよいと思っています。



蓮如『白骨のお文』

それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。
一生すぎやすし。
いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、 桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あわれというも 中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかく たのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。


※ 現代意訳

人間が、いかに根無し草のようにフラフラと生きているかということを考えてみると、まあ、はかなくもあっけないのは、この世での一生の過ごし方、それはもう、夢・幻のようなものです。
というのは、いまだもって、1万年も生きることが出来る身体を得たという人は聞いたことがありません。
一生はあっという間に過ぎてしまうものです。
どこの誰が、100年も同じ姿形でいられるというのでしょうか。
自分が先か、他人が先か。
今日なのか、明日なのか。
先に死んだり、後で死んだり、死んで行く人は、雨のしずくや露の玉ほどにたくさんで、数えることは出来ないものです。
朝には、元気な顔をしていた人が、夕方には白骨になっているのです。
ちょっとばかり、予想だにしなかった出来事が起これば、たちまち、目は閉じてしまい、息も絶えてしまうのです。
艶やかな顔が、無慚にも変わり果てて、元気な時とはうって変わってしまうのです。
親兄弟、子供や孫、親戚が集まって、嘆き悲しんでも、もう生き返ることはありません。
しかたなく、葬式をして、火葬にすれば、そこには、白骨だけが残るだけです。
死んでしまえば、哀れというか、空しく勝手気ままに生きたことが愚かなことに思えてなりません。
人間の命は、はかないものであり、年寄だから、若いから、という区別はないのです。
誰もみんな、明日をどう生きていけば良いのかということを、いつも心の中にしっかりと据えて、「大事に生きよ」という自分 にかけられた命の願いに沿って、「命は大切なものだ。その命を大事に生きて行く自分になる」と繰り返し繰り返し自分に言い 聞かせていくべきものなのです。
あぁ、そのことは、私にとっては、もったいないことでしたねぇ。










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