上記の「第1回 おいで MY フェスタ チャリティコンサート」での写真の最後の2枚が、JA香川県、書道詩人てらきち氏、との出会いでした。
当日の、私の、J.S.バッハの演奏と、コラボにつけた自作を、大変に気に入ってくださった、JA香川県さんから、来年1月の、朗読ミュージカルの総合プロデューサーの委嘱があり、その前段階として、朗読とのコラボ作品の作曲依頼、をいただき、2009年6月から、準備をスタートしました。
朗読ミュージカル本番までに、何回か、高松市丸亀町ドーム下での、喜多真弓女史の朗読や、てらきちさんの書道執筆パフォーマンス、講演と、私の自作ピアノ曲とのコラボをやりましたが、その第一回目が、2009年7月18日の
『JA香川県・丸亀町壱番街ドーム下・フェスティバル』
でした。
この企画は、第一次産業が見直されている現在の日本の状況を踏まえ、ずっと続けられる環境にあるところから、私も、本気で、取り組み、その本番が、2010年1月17日に無事に終わりました。
私は、大作曲家でもないので、自然に浮かぶモティーフを大切に、本能的に作曲しています。
極めて、直感と気分を大切に、音楽的に生きています。使命感などは全くありません。
それだけに、介護していた母の逝去という一大事は、大変に、私の生き方に影響しましたので、このあたりについて、ご案内したいと思います。
2002年頃から、高松の自宅で介護していた年老いた母の様態が悪くなったため、私は自作自演の演奏活動を中断していました。
母の病気は『肝硬変』でした。
母が介護していた母の母(つまり私の祖母)は、肝臓ガンで他界しましたが、もともと、この原因はC型肝炎だったのですが、
C型肝炎を母は介護していた祖母から移されたようです。
ご存知のように肝臓という臓器は、止血作用に大変に関っていますので、『肝硬変』の末期症状というものは、非常に悲惨な
もので、就寝中に、突然、口の中から出血が起こったりして、その都度、私は、近所の、「香川県立中央病院」に、母を
連れて行って止血していただいたりしました。
母の場合は、強力ミノファーゲンの投与で、肝臓ガンになることは押さえていたのですが、かなりひどい骨粗しょう症を患って
いましたので、その痛み止めの投薬が、どうしても肝臓に負担をかけるというジレンマにありました。
また、カルシウムの吸収にも、肝臓は深く関っていて、どんなにカルシウムを摂取してもそれが体内に吸収されないので、
どうしようもない状況でした。
就寝中に寝返りを打つたびに、背骨の圧迫骨折箇所が痛むので痛がったり、また、突然の出血が起こるなどのことがありました
ので、2002年頃からの5年間は、母にとっても、大変に苦しい時期だったと思います。
が、最後に、母が出血を起こしたのは、脳幹部の呼吸中枢の2センチ上の血管でしたので、脳内出血で直ちに意識不明に陥り、
約1ヶ月で、「香川県立中央病院」の集中治療室で、2006年9月19日に他界しました。が、今にして思うと、この1ヶ月が母に
とっては、骨粗しょう症の痛みも感じない、とても幸福な時間だったようです。
まあ、こんな風に振り返ることが出来るのも、母が他界して一周忌を過ぎた今だからで、母が他界して49日までは、喪主として
いろいろ忙しく、大半が遠方にいる親戚の人たちの受け入れ等で、動いていましたので、気持ちも紛れていましたが、
100ヶ日を迎えた2006年の年末は、一人になってしまった寂しさと、「香川県立中央病院」の集中治療室で毎日付き添っていた
けど、母が全く意識不明だった時からの疲れが、全て、同時に押し寄せて来ました。
こうした状況下で自作自演活動をするなどということは、全く考えられませんでした。
1994年に、肝硬変で倒れた母の介護のために、転職して四国高松にUターンし、2人でささやかながらも、ゆったりとした生活をしていた私にとっては、あまりの突然の死去でしたので、精神的に大変な打撃を被りました。
大変に悲しい思いに浸った、母の死去からの一年間でしたが、この中で、私を救って励ましてくれたのは、音楽と古くからの友人、うちの近所の海沿いで聞くことの出来る穏やかな瀬戸内海の波の音、そして、母の死去の2年程前から出会った、ウェブ上のSNSで出会った、たくさんの人達でした。
どんなに辛く悲しい目にあっても、人は、それを記憶の底に沈めて生きてゆかなくてはなりません。泣き喚いても、愚痴をこぼしても、最終的な問題解決は、自分自身の気持ちの整理ですから、自分の力で、悲しい記憶の全てを、記憶の底に沈めるしかないのです。
音楽や私のブログを通して出会った彼らは、そのことを、私に示唆してくれました。
そして、大きな転機になったのは、年が明けた、2007年4月でした。
2007年4月中旬、香川県立公園の栗林公園庭園コンサートの出演依頼を、関係スタッフの方からいただき、高松ワシントンホテルのティーラウンジ
で面会し、一緒にアイスコーヒーをいただいていた時でした。
「栗林公園庭園コンサート」出演依頼の話を聞いて栗林公園を思い出した時、真っ先に私の脳裏によみがえった光景は、2006年の3月、
年老いた母と一緒に栗林公園へ行った時のことでした。
場所は、梅林橋のたもとにある茶店。行きたかったお茶室の掬月亭(きくげつてい)にたどり着く前に腰が痛くなって、そこの軒下のイスに
腰かけて熱いお茶をすすっていた母と話していた時、梅林橋の裏の満開だった梅の香りが漂ってきた瞬間の思い出でした。
江戸千家不白流の茶道が趣味だった母が、久しぶりに大好きだった栗林公園のお茶室の掬月亭に行きたいということでつれてきていま
したが、もう、腰が痛くなって歩けなかったのでその茶店で一服して帰りました。
歩けないことを悔しがっていた母を励まそうと、裏の梅林の梅が満開だったので、私はそちらへ目を向けさせました。
「お母さん梅が満開だよ。」
「うわぁー、ものっそ綺麗なのう。もうすぐ春が来るんやのう。やっぱり栗林公園はええのう。お母さんのう、来年の春こそは丈夫になって
掬月亭まで行くけん、克彦すまんけどのう、また栗林公園に連れて来てえたのう。」
「わかったわかった。ぼくにまかせまい。はよ元気になりまいよ。」
母が亡くなる半年前でした。
あの時、ああ言っていたのに、母は二度と栗林公園に行けないまま、他界いたしました。
でも、あの時は、梅の香りが漂ってきて、春の訪れを予感したよなぁ、なんて思い出してしまいました。
そして、あの時、漂ってきた梅の香りが、音楽のモティーフに変換されて、変ト長調の響きで、私の頭の中で鳴りました。
私の作曲の開始は、いつも、このような形で、思い出が、音楽のモティーフで浮かぶのです。
旋律は陽旋法で終結は、平行調の変ホ短調で寂しく終わりました。このイメージが全てを決定しました。
曲全体の開始のプロローグは、近隣調の変ロ短調を提示して、終結のエピローグは、その同主調の変ロ長調にして、フラット系の
調性で品格のある物にしないといけないという基調構想が、アイスコーヒーを飲みながら頭の中で決まったので、関係スタッフの
方に私は答えました。
「自作自演で行きます。栗林公園をモティーフにした新しいピアノ組曲を書きます。作品番号は、OP.111になります。」
栗林公園を音楽で表現してやろう、なんて、大それた野心なんか全くありませんでした。
私の作曲動機は、過去から今まで、ずっと、もっと日常的な感覚に訴えてくるモティーフが浮かぶからなのです。
東京にいた頃の会社からの帰り道、先輩と桂浜で寝そべって太平洋を眺めていた時、合奏していたクラリネット奏者が
手料理を作ってくれた時等々・・・・・、ふとした時の自分のハートに触れた感覚が、しばらくの時間を置いて、音に
変わるのです。
音型の原型は最初からあることもあります。しかし、それが、モティーフになる時には、和声も対位も決まっているのです。
そして、そこまで決まっていないものは、モティーフではないのです。
亡くなった母の思い出という一大事だっただけに、この時は、モティーフだけじゃなく、組曲の曲想全体のプランまで瞬時に
浮かびました。
こうして、4月23日の夜、数時間で一気に書き上げたのが、
新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)でした。
その後、5月のゴールデンウィークに、母の川崎市日吉にある、岡田家先祖代々の墓への納骨と、生前から希望していた
京都西本願寺への分骨をすませましたが、私の心は空虚なままでした。
人間の無常観というものを身近に感じることはそんなに楽なことではありませんでした。
母の追悼のための作品がたちまち作曲出来たのは、母が私が幼少の頃から、英才教育を施してくれ、作曲やピアノが出来るように、心を砕いてくれたお陰でしたので、
新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)の作品の全てのモティーフは私の独力で出来たものではなく、母が下さったものだと思いましたから。
母の逝去後、母の残した桐のたんすを整理していると、私が幼稚園の頃、初めて出演した、ピアノの恩師の石井ルリ子先生のピアノの発表会で演奏している写真、小学校から高校までの通信簿、早稲田大学政経学部在学中に母に送った手紙が全て大切に保管されているものが出てきましたので、『母にとって、長男の私は、何歳になっても子供だったんだな。』と改めて確認して、思わず泣いてしまいました。
従って、香川県庁の依頼で、この作品を、2007年10月14日に、香川県立公園の栗林公園庭園コンサートで、母が大好きだった栗林公園で初演することが決まった後も、この作品の作曲者名を、岡田克彦、とすることは、適切でないんじゃないか、と思っていました。
私一人が生き残って、死んだ母の追悼という大義名分で作品を披露することに、ある種の偽善性を感じて、大変な抵抗がありました。こんな感覚に陥ったのは、これまで、いろいろ自作自演をやってきた私としては、全く初めてのことでした。
こうした初演前の虚脱感から私を救ってくれたのは、瀬戸内海の穏やかな海の音でした。
虚脱状態にあった私は、下記掲載の、高松市の西端の五色台・大崎の鼻展望台に行って、じっと瀬戸内海を眺めてぼーーーっとしていました。
大鎚島と小槌島を眺められる、美しい瀬戸内海の、この写真からは何も伝わりませんが、ここに行くと、瀬戸内海の潮の匂いと穏やかな波の音が聞こえるのです。
そして、母がなくなった悲しみは消えませんでしたが、ほっとしたのです。
それは、いつか私も母のいるあの世に行くことを、瀬戸内海の穏やかな波の音と潮の匂いが教えてくれたからです。
このことがわかったことが一番救いになりました。
そして、2007年10月14日に栗林公園で開催された、母の追悼のために私が作曲した新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)の初演の際には、
ピアノの傍らに母の骨壷を持参して聴いてもらうことに決めましたので、この段階で私の心は決まりました。
こうして、母の一周忌法要も終わった2007年10月14日に、栗林公園の緑の中で、
ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』(全18曲)を初演しました。
演奏中、母のことを思い出して涙があふれそうになったので、私は上空を見て(自作ですから、鍵盤なんか見なくても大丈夫なのです。)演奏しました。
この日を境に、私は、平常心に戻ることが出来ました。。
その後も、骨壷は、ずっと自宅の仏壇の隣に置いています。
毎朝、ご飯さんをあげて、母と話しています。
その方が私の気持ちも落ち着くからですし、浄土真宗はそれでいいのだそうです。
、
小さい頃からやっていた、作曲やピアノ演奏を仕事になんかせずに、ライフワークで、豊かな人生を歩んだ方がいいと、私に言ってくれたのは、母でしたが、本当に、そうやって来て、よかったな、と思いました。
作曲をライフワークにして生きて来たお陰で、辛かったことや悲しかったことを、私は、全て、記憶の底に沈めることが出来ました。
ですから、この、私の新作ピアノ組曲の題名は、『記憶の底の栗林公園』でなくてはならないのです。母との大切な思い出が、記憶の底に沈んだ時に、この作品は出来ましたので。
母の一周忌を終えて、新作を書いて発表出来るまでに回復できる環境を整えて下さった、全ての友人と、大好きなフォーレの作品に、深く感謝しています。
特に、このページのBGMに添付している、フォーレ作曲の「レクイエム」の、『ピエ・イエズス』には、とても励まされました。
2009年7月18日(土)に開催した、『JA香川県・高松市丸亀町壱番街ドーム下・フェスティバル』は、
2010年1月17日に「高松ミューズホール」で開催した、「JA香川県」主催の朗読ミュージカルの中の、朗読などをスポットで何回か披露する
一連のイベントの初回でした。
2010年1月17日に「高松ミューズホール」で開催した、「JA香川県」主催の朗読ミュージカルの総合プロデューサーのオファーをいただき、台本、作曲など全てをお引き受けしました。
が、その理由は非常に簡単なことでした。
それは、この朗読ミュージカルに出演する、JA香川県の会員の香川県内のたくさんの農家の、幼稚園から小学校在学中のお子様達と、そのご両親が参加している、田植え体験に、
視察に行って、全てのご家庭の親御さんが、大変に子煩悩で、それぞれに、素晴らしく温かい家庭を構築されていることを拝見したからなのです。
私は心の中で、是非、やらせていただきたい、と思いました。地位、名声、お金の問題じゃないのです。素晴らしく温かい家庭を構築されている皆様に感動を与えるような音楽を提供したい、
温かい家庭を構築している皆様を、作曲やアレンジで応援したい、と切実に思ったからなのです。
さらに、本当に偶然でしたが、合唱指導、振り付けとダンス指導の先生方は、全員、私のピアノの恩師、石井ルリ子先生の門弟でしたので、非常にうまくコラボなども出来る状況に
なりましたので、とてもラッキーだと思っているところです。これは、一期一会ではなく、神様の配慮だと、私は感謝しているところです。
しかし、神様のご配慮は、これだけにはとどまりませんでした。2009年10月のとある昼下がり、高松市在住の、K様とは、私の高松市西宝町の自宅近所の、
茶房に、行きつけの讃岐うどん店「やま家」で昼食をいただいた後、自転車で自宅に帰る途中、初めて入った時に出会いました。
この喫茶は、入口が和風に装飾されていたので、生前の母を、主治医の私の同窓生が院長をしている「番町大林病院」に車に載せて連れて行く時に、いつも通る道沿いに
あったので、車中の母が、「いつかあそこの喫茶店行きたいね。」と言っていたお店でしたが、それをかなえる前に母は他界しましたので、少なからず、感慨のあったお店でした。
私の座ったボックス席のすぐ横のカウンター席に、Kさんは腰掛けて、ママとお話していましたが、すぐに、初対面の私に話しかけてきました。
「どうして、このお店にいらっしゃったのですか。」と。
私は、亡くなった母の介護のことや趣味の作曲のことなど、包み隠さずお話しているうちに、ママさんも加わって、いろいろなお話で盛り上がりました。しかも、Kさんの
ご出身校が、四番丁小学校だったので、私の、大先輩でした。お二方とも、親の介護のご経験をお持ちでした。
お話の最後に、Kさんが
「私の自宅で、ホームコンサートをやっていただきたいです。お母様の追悼の作品『記憶の底の栗林公園 OP.111』を是非、聴きたいので、まずは、会場を見て下さい。」
と、いきなりおっしゃって、乗ってきていた彼女の車に載せられて連れて行ってくださいました。丘のてっぺんのピアノのあるお宅で、素晴らしいお茶室もついていました。
Kさんはいろいろと一人でご活躍されていましたが、ご主人は大実業家なのだろうと、私は推察いたしました。
私は、ピアノに向かって、母が一番好きだったシューマンの「トロイメライ」に始まって、ショパンやら自作をいろいろ演奏していると、Kさんは、大変に感動されておっしゃいました。
「ああーーー。ここから見えるお庭の木々も高松の町も空気も、全て、違って見えるわ。あなたの演奏をうちに出入りしている大工さんや庭師さんにも聞かせたい。」
これが、決め台詞になりました。音楽の一番大切なところをこの人は、生まれ持ってわかっている、と確信しましたので、私は、
「ホームコンサート、やりましょう。私自身、大工さんや庭師さんの感想が一番聞きたいです。」
と答えました。
さらに、東京や大阪にも音楽の友人がたくさんいると言っていた私に、
「その皆様方も呼べばいいじゃない。宿泊はOKよ。」
とおっしゃって、高松市塩江町の温泉を引っ張った別荘のマンションにまで連れて行って下さり、
「岡田さんも、作曲でお疲れになったときには、いつでもここにいらして休息してください。」
とおっしゃって下さいました。
こうして、2009年11月26日のホームコンサート「岡田克彦と仲間達」の開催が決定しました。
まず、GREEで出会った、東京のソムリエのWさんがいらして下さることになりました。
さらに、大阪の旧知の、母の介護でUターンする直前の1992年に私がプロデュースした『福島区民文化のつどい』の主催団体の「大阪市福島区コミュニティ協会」の役員をされていた、
当時大阪市勤務だったNさん(現在は、ご勇退後、奥様にも先立たれ、一人暮らしだそうですが、アマチュアテノール歌手として活動されています。)から、突然、
ホームページを見たので、とメールのやりとりがあり、お電話いただき、懐かしい懐かしい声を聞けました。私の母が逝去したことに対して、是非、ご仏壇の前で、
「千の風になって」をあなたのピアノと合わせたい、とのことで、2009年11月26日に出演したいので、その一週間も前から高松にいらして私の自宅に滞在してくださり、毎日、
うどんを食べたり、私と合奏したい、ということになりました。
こんなことが同時に起こることは、私の生涯でも一度きりだと思っていたのですが、Kさんの、
「このホームコンサートはずっとリピートしましょう。」
の一言で、ずっと続くことになり、第2回目が、2010年4月7日にKさんが宅での、「お花見会ホームコンサート」として開催されました。
昨今は、「作曲」という言葉が安直に使われているようで、楽器演奏の延長上にあるように考えられているきらいがありますが、モティーフは、楽器も何もないところで自分の頭の中で瞬時に浮かばないといけません。楽器はそれを表現する道具なので、道具に頼っている作曲家は作曲作品の守備範囲が狭くなります。
3歳の時からピアノをやっていたのでピアノ曲しか書けなかった20歳当時の、しろうとナルシストコンポーザーだった私を、本来の作曲家に育ててくれたのは、作曲の恩師の、故.座光寺公明氏と、故.小倉朗氏でした。
特に、故.座光寺公明氏は、新宿中村屋の中地下のBGMと人の声でガヤガヤとうるさい喫茶「マシェーズ」で、26歳当時の私に、「一緒に作曲しようぜ。」と、毎週水曜日の夜6時から5時間くらい、一緒に作曲しました。作曲の際には楽器などいらないのです。頭の中で絶対音を響かせて、曲の最後まで書けないといけないことを、あの時に、私は習得しました。
だから、この、新作のピアノ組曲『記憶の底の栗林公園』OP.111も全て、18曲のモティーフを、私は、自宅で紅茶を飲みながら、頭の中で響かせて組み合わせて5時間くらいで、テーブルに向かって五線紙に全て書いてしまってから、はじめて電気ピアノに向かって弾いてみて、音色を考えて一部手直ししただけなのです。本番が電気ピアノでしたからそうしたのです。
頭の中の絶対音がしっかりしていれば大丈夫なのですよ。ピアノの入らない、弦楽四重奏の作曲に比べたら、そんなに手間もかからないのです。
また、2010年5月24日に、「記憶の底の栗林公園 OP.111」などの、私の作曲作品自作自演シリーズのCDと楽譜が、東京、大阪と高松で同時発売開始されました。
このCDは、私の旧知の、私の作曲作品のファンの、有限会社 アミュフィ、社長の、元、アマチュアクラシックギター奏者の藤田博之(ふじた ひろゆき)様が、2010年2月7日に、わざわざ、東京から
高松まで、私の自作自演を収録に来てくださることになり、また、同時期に、高松市瓦町に、早稲田大学の大先輩の、鞄海プライウッド社長の丸山氏のご子息が素晴らしいアナログスタジオの、
「studioSUMUS」を創設されたので、そこで収録すること、アルバムに入れる曲目も全て、私の希望曲にして実現させたものです。
有限会社 アミュフィ、社長の、元、アマチュアクラシックギター奏者の藤田博之(ふじた ひろゆき)様は、いつも、ウィーンのピアニストの大家デムスの収録をなさっている、私の作曲作品の
よき理解者のお一人なのですが、私のポリシーとして、私の自作自演をCD収録する技術者も、クラシック音楽の演奏をした経験のない人には絶対にお願いしないことに決めていますので、
今回は、これが全てクリア出来たので、OKした次第です。また、約1時間のアルバムの値段も、東京では、2000円程度が適正価格なのだそうですけど、高松市内在住の人たちにおいても、
購入したくなるように、「CDの値段をぶっかけうどん3杯分くらいの1000円(消費税は外税)、という価格にしないのなら、一切取りやめます。」、と、私は藤田社長に駄々をこねて(笑)、
出来上がった次第です。
県立公園の栗林公園を全国にPRにしたい、香川県観光振興課のご紹介で、香川県物産協会で販売することにしています。香川県物産協会は、東京と大阪に、支部がありますので、買いたい方は、そちらで、
お求め下さい。
このCDが、CDショップに並ぶことは、絶対にありません。だって、ブギウギ、ピアノ組曲、歌、語り、が全て入っていますから、細分化、専門化された、CDショップには、置くところがない、
のですからね。
従って、このCD発売は、拝金主義に対する、私の、ささやかな抵抗でもあるので、大金持ちは、絶対に買わないで、M&Aにでも投資しなさいね(笑)。
第一、私の自作のようなデリケートな作品は、「世の中は銭(ぜに)だ。」等と思っている輩には、『豚に真珠』ですから、豚は豚の作曲した作品を買えばよいのです。
まあ、このような好き勝手が出来たことも、私の31歳当時の作曲作品「クラリネットとピアノのためのドメスティックなラプソディー OP.61」
を、藤田社長がいたく気に入って下さったお陰なので、全て、私の作曲能力のなせるわざでしたので、嬉しかったと共に、日々、作曲活動に精進しないといけないことを、再度、確認出来ました。
当然ながら、下記掲載のこのCDアルバムの中心は、香川県立公園の「栗林公園」をモティーフに作曲した、ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園」 OP.111(全18曲)です。
収録曲目
岡田克彦作曲;ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園」 OP.111(全18曲)
〔ピアノ;岡田克彦 西谷智英美の語りつき〕
岡田克彦作詞作曲;ソプラノとピアノのための「同行二人」 OP.114
〔ソプラノ・語り;西谷智英美 ピアノ;岡田克彦〕
せとちとせ作詞作曲、岡田克彦編曲;さぬきブギウギ
〔ボーカル;せとちとせ ピアノ;岡田克彦〕
なぜなら、ご高承のように、ミシュランの三ッ星公園の認定を受けている公園は、日本国内でただ一つ、香川県高松市の「栗林公園」(りつりんこうえん)だからです。
讃岐うどんも、素晴らしく美味しく安くいただけますけど、ミシュランの三ッ星指定を受けるには100年以上の期間が必要だと思っています(笑)。
最後に、母の逝去から辛い時期を過ごした私を励ましてくださった、SNSの皆様には大変感謝しています。
特に、SNSをご覧いただければ、母の逝去前から逝去、そして、一周忌を過ぎて、新作ピアノ組曲『記憶の底の栗林公園 OP.111』を作曲、初演するまでの間、どれだけたくさんの人達に励ましていただいたかをご覧いただけます。
が、この一連の期間のブログは、人に見せるような成果物ではありません。私の宝物だと思っております。
人間は、ただ一人、孤独に生きていても、自分だけの宝物がいくつか出来るものです。それは、自分の感性や嗜好と素直に孤独に対峙してゆくことによって成し遂げられ、それが、運よく、芸術作品に昇華されることもあります。
私が若き日、大学時代に愛読した、リルケの著書『若き詩人への手紙』の中に書かれているたくさんのアーティストとしての生き方を示唆する文章から、私は、それを学びました。
21世紀になり、日々、全ての価値観が覆されるような、激動の時代になっても、
J.S.バッハの『マタイ受難曲』のように、海や空のような自然、人間の持つみずみずしい感受性やヒューマニティーと
同様、永久に変わらない普遍的なものもあります。
かつて、ドビュッシーは、若い頃、『昨日の不協和音は今日の協和音』と主張して、協和音の世界を崩そうとしていましたけど、
その後だいぶたった今日でも、協和音の世界は、人間の大部分に、癒しと安らぎを与えてくれます。
今後は、この、普遍的なものをしっかりと腹に据えて、毎日変貌する世の中の常識を見てゆくバランス感覚が重要になると
思っています。
有限な生存期間を生きているにすぎない、自分自身のちっぽけさを感じる時、この世で出会う、全ての、
“Friends of the Earth”との『一期一会』
を大切に生きたいと思っています。
2000年以降の、私の、ライフワークの作曲を基にした、自作自演活動は、以上のような状況になっています。
将来のことは全く未知数です。拝金主義者が横行している昨今の殺伐とした世の中においては、勝ち組を目指す方が多いようです。
しかし、勝つ人がいるということは、必ず、負ける人がいる
ということ、そして、勝った時に負けた人を思いやれない人は、生きていても仕方のない人達ですので、アーティストの私は、このような、一過性の常識でしか全てを判断できないような下界
の瓦礫の凡人の皆様には、無関心に、夢一杯に生きてゆきたいと思っています。
私は自分の生きたいように生きます。そして、この生き方に反対の皆様の反論は、全て、無視いたします。が、反論を無視しても、無視されたことに気づかないで、陰口を叩くような方は
許しません。
あたり前のことですが、個人の尊厳 > 言論の自由 ですので、これを踏みにじるような、2ちゃんねるのような匿名掲示板で陰口を叩いているような人間については、
精神的に抹殺させていただく所存ですので、あらかじめご承知おきください。
※ 背景は、母が脳内出血で倒れる半年前、最後に一緒に行った、「栗林公園」の、梅が満開だった『梅林橋』です。
お茶室の「掬月亭」に行きたいということで連れて来ていましたが、『梅林橋』まで来たところで腰が痛くなって
歩けなくなったので、仕方なくここで一服して帰りました。
満開の梅に感動した母が、来年の春こそは元気になって、今度こそ「掬月亭」に行きたいと言っていましたが、それもかなわず、
半年後に他界しました。
ピアノ組曲「記憶の底の栗林公園」OP.111全18曲の、14番の『梅林橋の梅』は、このとき漂ってきた梅の香りの
思い出が音楽になったもので、この組曲の中心です。
『梅林橋』は、生涯忘れることの出来ない、大切な場所になりました。